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9.122011
震災半年、陸前高田へ(1/3)

震災から半年になる。3月は、自分の仕事の対応で手一杯だった。4月から心に少し余裕ができて、被災地への物資支援を始めた。以来、毎週1回のペースでその都度ニーズのあるものを送り続けている。しかし、被災地にはこれまで行っていなかった。震災からちょうど半年になるこの週末、ついに訪問の機会を得た。行き先は、岩手県の陸前高田とその周辺。何をしに行ったのか・・・。もちろん被災地で何某かの貢献をするためだが、突き詰めて考えれば「自分のために行った」ということになる。
「実際に自分の目で見たい」「人に会って話したい」「今後自分がどのように被災地支援をすべきかを現場で考えたい」。要するに、自分がそうしたいから行ったわけだ。
以前から、人生の大きな節目ではどこからともなく声が降ってきて、その内なる声を聞いて衝動的に動いてここまで来た。
今回は、そういう節目の声を感じさせる何かが心の中にあり、「ああ、そろそろ行くときが来たんだな」と直感的に感じていた。
震災後に、勤務先のボランティア休暇の制度の日数を増やすなどして充実させたので、自分でもそれを活用。金曜日をボランティア休暇にして、金~週末の訪問プラン。
長距離運転が好きなので、もちろん自家用車で往復だ。
金曜日は、首都高の渋滞もあり、9時間くらいかかって陸前高田に到着。震災当初からボランティアの拠点になってきた、矢作の鈴木旅館にチェックイン。
非常に鄙びた温泉宿。トイレや炊事場も共同で、部屋にはコインTVという昔懐かしいつくり。布団があって、寝れればそれでいい。
玄関を入ったところの広間のテーブルに、誰が残したか、手書きのメッセージがある。そういう場所だと分かっていても、これは脳裏に焼きついた。
金曜日は移動日で、支援活動は土日。夕暮れが迫っていたが、急ぎ足で被災地の現況を見に行った。
車の残骸は、いたるところに積み上げられている。ここなどは、「車のグレイヴヤード」と呼ぶべきか・・・。「うっ」とくる。
メディアでよくとりあげられる、高田の一本松。こうしてみると、明らかにもう枯れている。再生するだろうか。
一本松のそばにある、気仙中学校。最上階まで津波が突き抜けている。
気仙中学校の脇の道を気仙沼方面に進むと、「津波浸水想定区域」の道路標識が目に入る。いちおう、以前から想定はされていたわけだ。
実際、ちょうどその看板のあたりまでモノが流れてきている。これは、ボートと大型タンク。峠道の脇にある窪地に、忽然と姿を現したので驚いた。
来た道を戻り、川沿いに遡上してみる。周囲の平地部分は完全に廃墟。カーナビにしたがって橋を渡ろうとしたら・・・なんと橋がない。
橋げたのみが川の中に立っており、橋は流されたままだ。カーナビの表示とのギャップが、本当にとんでもないことが起きたのだと語りかける。
しかし、半年という時間を経て、日常が徐々に回復されつつあるのかなと思わせる場面もあった。
廃墟の中を犬を連れて散歩する人に時々出会う。もちろん、心の中は見えないが・・・。
これは、多分漁港関連の施設。再建が進行中だ。
スーパー「MAIYA」の仮設型店舗。同じ敷地内に仮設型「公文教育研究会」などもあった。夕暮れ時の駐車場は満車に近く、店内も活況を呈していた。
震災後半年を経た被災地では、こうして普通に生活できいる人と、まったくそういう状況に程遠い人とが混在している。
また、普通に日常生活を送ることが出来る人の中にも、心に深い傷を負っている人と、幸いにもそうではない人とが混在している。すべてが、まだら模様だ。