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震災半年、陸前高田へ(3/3)

日曜日。前夜の誓いどおり、早目に起きてチェックアウト。作業が始まる前の時間に、大船渡を往復する。

と思いきや、2階から手を振る人がいる。大阪から来たKさんだ。一緒に大船渡へ行くことになった。

大船渡。陸前高田の隣町で、やはり甚大な被害を受けている。メディアでは知っていたが、ここも現場を見ると絶句する場面の連続だ。

陸前高田は中心部が海沿いだったために、町の主要機能が麻痺した。大船渡の不幸中の幸いは、中心部が高台にあたっということ。全体としては、町は機能している。

しかし、海沿いの低地に出ると惨状が広がる。住宅街の中に、まだこんな船が乗り上げたままになっている・・・。絶句。

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さらに港のそばに行くと、壊滅的な打撃を受けた廃墟が広がる。

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メディアにも出てきた、港の後背地の神社。ここの急な階段を駆け上った人は助かった。この階段・・・。どんな思いで登っただろうか。そして、降りただろうか。

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鳥居の前に掲示板があり、行方不明者や遺体の身元確認の状況などが貼り出されていた。まだ行方不明者がたくさん残されているが、その現実の一部をここで垣間見た。

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境内には津波の警報塔があり、やはり津波は当地の記憶には刻まれていたのだと改めて思った。しかし、それがいつ来るかは、知る由もなかったことだ。

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10時頃に拠点に行き、さる縁でOさんと知り合う。古くから伝わる家柄、以前は地域でも有名なお屋敷に住んでおられた人。

その家ごと、もう何もかもすべて津波が奪っていった。Oさんは、当時屋敷に避難していた人々を津波に飲まれながら必死に助け、最後にご自分も九死に一生を得た。

屋敷のあった土地の奥が高台になっており、そこに助けあげられたのだという。高さ10メートルはあろうかという崖。その上の方まで津波が来た。海岸から7キロの地点・・・。

津波が引いたあとは、海の方角から流れてきたあらゆるものが、この高台の崖のあたりに押し押せていたらしい。もちろん、ご遺体も多数。

震災後しばらくの間は、そうした漂着したご遺体や瓦礫が運ばれていく様を、日々見ていたそうだ。あまりにも生々しい話。

Oさんは、その時に見た多数のご遺体を供養するために、ご遺体が流れ着いていたあたりにヒマワリやコスモスをたくさん植えた。今はおだやかな草地が広がる。

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その花が、今は満開だ。Oさんは今でも毎日、草取りなど花の世話にここを訪れる。それで今日、僕はOさんに出会ったわけだ。

明るい兆しもある。Oさんは高台の上の土地も所有しているので、そこを仮設住宅の方々に開放して菜園にしたそうだ(Oさんご自身も仮設住まいの中・・・)。

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菜園を借りている人々のうち、偶然にも2人とお会いすることが出来た。お二人とも、とても明るく楽しそうに菜園のことを語って下さった。畑作業が、人々を前向きにする。

でも、このお二人にもそれぞれの被災体験がある。ようやく明るさを取り戻しつつある場合でも、人々の内面にあるものは計り知れない。それが被災地の現実だ。その喪失感は、我々には想像しえない。

その後、草刈や仮設住宅向けの物資の袋詰めなどを行った。支援物資がほとんど届いていない仮設住宅群があるとのことで、そこに戸別訪問して手渡しする計画。

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夕方にかけて、支援活動のリーダーのTさんに連れられて、改めて陸前高田~気仙沼の被災状況を視察。Tさんは3月からずっと被災地に通っているので、細部に詳しい。

特に、気仙沼の状況はショックだった。どこもショックだが、ここはまた特に。津波の後に大規模な火災が起きて、地獄絵図になったあの場所。

車がぐちゃぐちゃになっているのはどこも同じだが、ここはその色がおかしい。高温で燃え続けて、溶けている部分もある。錆びも激しい。

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いまや気仙沼の被災の象徴的存在ともいえる、この大きな船。大船渡の住宅街に乗り上げていた船よりも更に大きい。考えられない。

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壊れた民家の前で、こんなものを見つけた。うちの子供たちが使っていたのと同じような、新幹線のおもちゃ。

これは、もうほんとに泣いてしまった・・・。泣いてしまって、しばらくそこから動けなかった。ひどいなぁ・・・。ほんとうにひどいことだ。

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海に近づくと、その一帯はまだ手つかずに近い状態。重油だろうか、揮発性の異臭あり。油の浮いた泥水の中を魚がうごめき、大繁殖した海鳥が舞う。

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気仙沼で仲間とは別れ、僕は帰路についた。東北道を走りながら、ずっとこのニ泊三日の意味を考えていた。いくつか、今後やるべきことが明確になっている。

今回の訪問で、たくさんの新しい出会いがあった。その出会いを縁として受け止めた。陸前高田やその周辺は、もうよその土地ではなくなった。

今後の人生の中で、「わがこと」として支援、応援を続けていくことにした。それは、ほかでもない「自分のため」にすることなのだ。

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