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濱守栄子さん(シンガーソングライター)

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第5回 シンガーソングライター 濱守 栄子 さん

(対談実施:2012年10月上旬)

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古森: こんにちは。日本各地を飛び回っておられる中で、今日はお時間をいただきありがとうございます。この後もまだお忙しいということで、ご無理を申し上げてディナータイムの設定にさせていただきました。

濱守: こちらこそ、よろしくお願いいたします。今、来週の復興支援チャリティーコンサートの準備が大詰めなのです・・・。今日この後は、都内某所からUStreamで中継があります。

古森: お疲れ様です。チャリティーコンサートの収益金は、すべて大船渡や陸前高田に寄付されるそうですね。私はちょうど明日から「Komo’s英語音読会」で陸前高田に行きます。昨年の秋から毎月一回訪問して音読会を開催していまして。私なりの活動をしていく中で、濱守さんのことは色々な場面で見聞きしております。

濱守: そうですか、ありがとうございます。私なりに出来ることをしたいと思いまして、駆け回っております。

■ 大船渡で生まれ、陸前高田で青春を過ごした

古森: 大船渡のお生まれだと伺いました。

濱守: はい、碁石のあたりの生まれです。小学校~中学校は大船渡でした。

古森: 碁石海岸、あれは本当にすごい景色ですね。あんなに足元からまっすぐに深い、吸い込まれるような海はなかなかないです。それで、高校から陸前高田へ?

濱守
: そうです。高田高校に行きました。

古森: 高田高校・・・。昨年の津波で、母校がひどく被災してしまいましたね。

濱守: ええ、本当につらいです。高校を出てからは、地元の金融機関に就職しました。大船渡の店舗でしばらく働いて、その後陸前高田の店舗で9年間過ごしました。

古森: まさに青春時代の多くを陸前高田で過ごされたのですね。思い出もたくさんあることでしょうね。

濱守: それはもう・・・。タピック45(注:道の駅 高田松原)のあたりなど、よく行きました。

古森: 国道45号線沿いですね。海に面したあのあたりは、津波でことごとく破壊されてしまいましたね・・・。私も最初訪問した際に、あまりのひどさに立ち尽くしてしまいました。歌は、いつ頃から始められたのですか。

濱守: 25歳の頃からです。金融機関に勤めながら、アマチュアバンドで歌い始めました。きっかけは、ちょっと個人的に喪失感を感じることがありまして・・・。
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古森: 何でしょうね(笑)

濱守: 内緒です(笑)。それで、実際自分で歌い始めてみて、「もっと早く始めれば良かった」と思いました。それまでの私の人生は、いうなれば親の言うことに従ってきた人生でした。自分が好きだと思うことをやり始めてみて、「ああ、自分で夢を持っていいんだ!」と気づいたのです。

古森: 文脈は違いますが、私も最初の転職をするときに似たような閃きがありました。お気持ち分かります。

濱守: 人間にとって、早い時期から可能性を広げていくことは、とても大事なことです。でも、今の被災地の子供たちを見ていると、ほんとうに選択肢が少なくなっているような気がします。そして、大人たちが苦労しているのを知っているから、「自分はこうしたい」ということが言えなくなっています。

古森
: 子供は子供なりに、震災とその後の現実を受け止めていますからね。

濱守: 今の被災地では、夢を持っていても、大人たちに気を使ってあきらめてしまう子供達がいるだろうと思います。私は、「自分の可能性を広げていいんだ」ということを、歌の活動を通して伝えていきたいのです。自分自身、それにもっと早く気づいていればという思いがあるからです。

古森: 濱守さんにとって陸前高田は青春の舞台であり、そして、人生を自分の意思で開いて行こうと心に決めた、出発の地なのですね。その後、プロデビューに至る経緯というのは?

濱守: 陸前高田でアマチュアとして活動していく中で、あるプロデューサーの方から声をかけていただきました。当時は金融機関での仕事が生活の糧でしたし、東京に行くとなると不安もありました。3年間ほど、どうするか悩んでいました。

古森: しかし、最終的には上京を決められたのですね。

濱守: はい。29歳のときに東京に出てきました。きっかけは、祖母が亡くなったことでした。「人って、いつ死ぬかわからないな」と、その時思ったのです。だったら、やりたいことをやってみようということで、親の反対も押し切って、出てきてしまいました。

古森: 安定した金融機関の仕事も辞めて。

濱守: そうです。でも、怖くはありませんでした。苦労を覚悟して自分で動いてみたら、道は開けて行くんだな、と実感しました。HAMAという名前でCDも出して、自分としてはそれなりに新しい人生に満足していました。

■ 震災を機に、活動の軸足が大きく変化

古森: ”3.11”の震災発生のときは、どうしておられましたか。

濱守: 私は東京にいました。テレビで映像を見て、愕然としました。あの見慣れた大船渡や陸前高田の町が、津波に飲み込まれていく光景を何度も目にしました。

古森: 青春時代の思い出が詰まった場所だけに、大変なショックだったことでしょうね・・・。よそ者の私には、本当に言葉がありません。

濱守: 最初は、ただもう涙がこぼれるばかりで。でも、やがて「ふるさとのために何かしなければ!」と思うようになりました。それまでの私は、CDデビューしただけで満足していたように思います。しかし震災を機に、私は使命感で動くようになりました。それが、「国道45号線」という歌になりました。

古森: 岩手県トラック協会のテーマソングになったという、あの曲ですね。

夜中に喧嘩して飛び出した45号線

友達と朝まで語り合った45号線
週末にあいつと待ち合わせた45号線
ふるさとの花火を横目にみた45号線

TVに映し出された

見慣れているはずの風景
あまりにも残酷で
思い出せないほど
ただ涙がこぼれた

いつかまたあの頃のように

あの場所で笑い合いたい
大好きなあの人が待っている海の町で

(MVを動画で見ることができます↓)
http://youtu.be/sibpMtjKn34

 

古森: 濱守さんの青春の記憶、傷ついた故郷への思い、そして復興への希望が込められた歌だと思います。売り上げの半分は陸前高田市と大船渡市に義捐金として寄付しておられるのですよね。

濱守
: はい。

古森: 津波以前の陸前高田に行ったことがなく、傷ついた姿で始めてあの町と出会った私としては、この歌の最初の部分でぐっときてしまいます。当たり前なのかもしれませんが、あの場所に普通の日々があった。それを思うと切ないです。この歌は、実際はいつ頃作成されたのですか。

濱守: 最初に歌ったのは、震災後のゴールデンウィークでした。4月末に大船渡の実家に里帰りして、連休中に実家の居酒屋で「こんなのを作りました」ということで、歌ってみたのが最初です。

古森: そこから、だんだん広がって行った・・・。

濱守: そうですね。「歌いに来てほしい」というお声がけをいただいたので、避難所や学校などをまわって歌いました。皆さん、聴きながら涙を流しておられました。

古森: 涙、出ますよね。この歌だと。

濱守: そのうちに、縁者からの紹介などもあって、IBC(岩手放送)さんにも呼んでいただきました。そこから、ラジオやテレビにも出していただけるようになりました。トラック協会の会長さまからテーマソング化の話をいただいたのも、テレビ出演がきっかけでした。昨年の夏のことです。

古森: 陸前高田のキャラクターとして、今年3月に公募で誕生した「たかたのゆめちゃん」のテーマソングも歌っておられますよね。

濱守: はい。今年2月の「復興未来会議」が東京で開催されたときに、AidTAKATA(注:特定非営利活動法人陸前高田市支援連絡協議会)の村上代表にお会いして、その縁で歌の提供依頼を受けました。

古森: その後、「ゆめちゃん」とは色々な機会にコラボレーションしておられますね。

濱守: 「ゆめちゃん」とは、仲良しですよ(笑)。「国道45号線」は、どうしても暗くなってしまいます。でも、「ゆめちゃん」と一緒に歌ったり踊ったりすると、子供達も年配の方々も本当に明るくなります。何よりも、笑顔を忘れていた子供たちがに笑顔が戻るというのが、いいですね。

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古森: 来週のチャリティーコンサートにも、「ゆめちゃん」が登場すると伺っています。楽しみですね。

濱守: 「ゆめちゃん」関連のグッズの収益は義捐金になりますし、日本全国の皆さんが「ゆめちゃん」のファンになって下されば、いずれ陸前高田や大船渡のファンにもなって下さると思います。

古森
: 「ゆめちゃん」と一緒に、全国の保育園、幼稚園、学校なども行脚できたら良いですね。きっと、陸前高田や大船渡に興味を持つ人が増えるだろうと思います。

濱守: そうですね。今はまだ「夢」ということの意味が分からないような子供でも、歌として覚えていれば、いつかハッと気づく日が来るでしょう。復興をテーマにしたイベントに限らず、あらゆる機会を大事にして「ゆめちゃん」を、そして故郷のことを、多くの人に伝えていきます。

■ 復興するまでは・・・。

古森: 今後の活動としては、どのようなことを考えていらっしゃいますか。

濱守: まずは、「国道45号線」と「ゆめちゃん」を、もっと多くの人に知っていただけるようにします。 「知ってほしい」という思いとともに、それは、「忘れないでほしい」ということでもあります。

古森: 震災の記憶は、どんどん風化していきますからね。実際は一年半以上経過しても、大きな問題がたくさん残っています。伝え続けることが大事だと思います。

濱守: なんというか、地元が復興しないと、自分も「幸せになってはいけない」ような気がしていまして・・・。

古森: なるほど、そういう思いもありますか。

濱守: 震災後しばらくの間は、東京にいても布団で寝たり、普通に食事したりすることに罪悪感を覚えました。一年半以上を経た今も、あの感覚がまだ続いているようです。

古森: 人それぞれの中で、まだ震災は現在進行形なのですね。

濱守: 私は、歌で一発当てて大もうけしようとか、そんなことは望んでいません。故郷が復興してくれれば、自分は別に質素な暮らしでもいいのです。ただただ、一日も早い復興を祈っています。

古森: その祈りを込めた歌が多くの人に伝わって、復興の礎になることを私も心からお祈りしております。

あっ。そろそろ次の場所に移動のお時間ですね・・・。濱守さん、今日は貴重なお話をお聞かせ下さり、本当にありがとうございました。
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対談にご同席いただいたAidTAKATAの村上代表と3人で

(終)

~ 濱守栄子プロフィール ~   

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http://www.eikohamamori.com/
岩手県大船渡市出身のシンガーソングライター。

2009.1.28 「HAMA」名義で待望の全国デビューを果たす。

2011.8.3 本名「濱守栄子」名義でリリースしたチャリティプロジェクトCD「国道45号線」が岩手県トラック協会のCMソングとして話題となっている。

2007年まで岩手県を中心にライブ活動を行っていたが、本格的に音楽活動を行うため上京。現在関東・地元岩手県を中心にイベント・ライブ活動を展開し、テレビやラジオなど数々のメディアにも多数出演、保育所、病院、小中学校での講演会やミニライブ等、さまざまな場でその実力を発揮している。

地元大船渡市の「さんりく・大船渡ふるさと大使」に就任、2012年、陸前高田市に誕生したゆるきゃら「たかたのゆめちゃん」のテーマソングも手がけている。

岩手のアンテナショップ「銀河プラザ」応援女子会anecco.のメンバーでもあり、また「いわてまち焼きうどん」の公式ソングを手がけ、B-1グランプリ全国大会のステージへ出演するなど日々地元の宣伝活動にも力を入れ、岩手県の経済効果にも貢献している。

1st アルバム「Let’s EAT!」
♯08「舞花-maika-」は、文芸社より全国発売中の恋愛小説「ラブ・エージェント」のイメージソング。

1st 両A面シングル「夢色時間/キセキ」

♯02「キセキ」はつながれ!三陸鉄道キャンペーンソング

出身地:岩手県

誕生日:3月17日
血液型:O型
趣味・特技:料理/ボウリング/裁縫/ドライブ/インターネット/作詞
スポーツ:バレーボール/スノーボード
好きなもの:猫/ピアノ/赤/メープルメロンパン/ヨーグルト/岩手/下町/夜/指輪/金曜日/バーゲン/スパイラルパーマ/ワンピース

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