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鈴木英里さん(東海新報社 記者)

復興対談シリーズ ~Talk for Recovery~(第10回)

東海新報社 記者 鈴木 英里 さん

 

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1. 長い一日
2. 地元紙の存在意義をかけて
3. あえて花の特集を
4. 何かがおかしい
5. 黒子ポリシー
6. 批判ではなく学びとして
7. それでも美しい気仙の地
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1. 長い一日

古森:英里さん、取材で飛び回っておられる中、お時間を割いていただき有難うございます。2011年の秋にお会いして以来、英里さんの発信されるメッセージにはいつも考えさせられたり、心を打たれたりしています。今日はよろしくお願いいたします。

鈴木:こちらこそよろしくお願いいたします。いつもインタビューをする側なので、自分でインタビューを受けるのは緊張しますね(笑)

古森:いつものざっくばらんな感じでお願いします。英里さんは、以前は東京で勤務されていたのですよね。

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鈴木:そうです。大学を出てからしばらくの間、東京の出版社で働いていました。父が東海新報社を経営していますので、いずれはこちらに戻るつもりがあったのですが、まだ先のことだと思っていました。ところが、身内の事情もありまして、2007年に急遽戻ることになったのです。

古森:そうだったのですね。ご自分の決めたタイミングというわけではなく、ある意味、運命に引っ張られる形で故郷の地へ・・・。そして2011年には震災を経験されるわけですが、当日はどのような状況でしたか。

鈴木:あの日は、取材から戻ってきて原稿を書いていたところに地震が来ました。二日前にも大きな揺れがありましたが津波は来なかったので、津波のことは考えませんでした。でも、社長を含め年配の社員は「これは津波が来る」と口々に言うのです。それで、皆総出で取材をするために各方面へ散りました。

古森:避難するのではなく、やはり取材なのですね。

鈴木:はい。何か起きたらしっかりと伝えねばなりませんから。私は、大船渡市三陸町のほうに行きました。行く途中に道の駅に寄って、棚から崩れ落ちた荷物の様子などを撮影していました。

古森:津波ではなく、あくまでも地震の被害のほうを取材しておられたわけですね。

鈴木:やはり、自分の中には大きな津波というイメージがなかったのです。しかし、それもつかの間でした。荷台に高齢者を載せたトラックが入ってきたのです。老人ホームの方々でした。顔面蒼白の職員さんに、「どうしましたか?」と聞いたら、「流れた!」と。それで、道を下りて行ったら、木の間から町が流れて行くところが見えました。

古森:唖然とする光景だったでしょうね。

鈴木:その時すでに、津波は第二波だったようです。第二波、第三波、と来ては返す大津波の様子を呆然としながらも撮りました。そして、「戻ろう」と思いました。道路は渋滞がひどく、それほど遠くない盛(さかり)の町に着くまでに数時間かかりました。もう日が暮れて19時くらいになっていました。

古森:何が起きているかわからない中での渋滞、精神的にも苦しかったことでしょうね。

鈴木:盛からすぐ先の大船渡の様子を知りたかったのですが、まったく情報がつかめませんでした。でも、盛まで来たところで道が濡れているのを見て、「えっ、まさか」と思いました。そして、案の定45号線は完全に瓦礫で埋まっていて、前に進むことが出来ない状態でした。

古森:大船渡が被災したことを直感されたのですね。

鈴木:何とかして大船渡の様子を知ろうと考え、住田町経由で山の中を通って陸前高田に抜ける道を進みました。でも、それも駄目で、竹駒町のあたりで通行止めになっていて、引き返さざるを得ませんでした。仕方なく、また長い時間をかけて大船渡の山側にある実家を目指しました。そこに着いた時には、22時頃になっていました。兄から、母方の祖母が亡くなったということを聞かされました。

古森:そうだったのですか・・・。言葉がありませんが、ほんとうに長い一日だったことでしょう。

 

2. 地元紙の存在意義をかけて

鈴木:翌日は、道のヒビ割れた三陸道をなんとか通り、会社に向かいました。取材に出たまま連絡がとれないので、自分も死んだものと思われていたようです。自宅のあったエリアも流されましたし。ともあれ、悲嘆に暮れる間もなく仕事を開始しました。地元紙としてまずやるべきことは、避難者情報の共有でした。

古森:誰がどこに避難しているか、ということですね。

鈴木:そうです。多くの人々が、お互いに連絡のとれないままバラバラになっていました。皆、家族や知人などの安否が心配なわけです。記者でない人も含めて社員総出で、各避難所をまわって情報を集めました。

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古森:新聞を発行するインフラのほうは、大丈夫だったのですか。

鈴木:震災翌日からすぐに発行することができました。まず、電源ですが、これはチリ地震津波のときに社屋が被災し、一週間も発行をストップせざるを得なかったことに教訓を得て、社長が一昨年前に自家発電機を設置していたのです。大きな投資で、当時は社内にもいぶかる声がありましたが、これこそが会社の命運を分けたのです。

古森:チリ地震津波の直後ではなく、一昨年前になって思い立って導入されたというところに、かえって洞察の鋭さを感じますね。

鈴木:紙については、自力でなんとかしました。以前から協定を結んでいた胆江新聞社さんを訪れた際に携帯の電波が入り、製紙会社に連絡をつけることができたのです。胆江新聞社さんは、先方のオンラインで小紙のPDFデータを流して下さいました。本当に助かりました。避難者情報や生活情報を載せた紙面を発行することが出来ました。

古森:当時の緊迫感が伝わってきます。震災後しばらくの間は、そうした避難者情報、生活情報を足で稼いでは共有するという日々だったわけですね。

鈴木:はい。それと、死亡者情報ですね・・・。

古森:・・・。

鈴木:集めた情報を紙面に落として、朝一番に避難所に新聞を配りに行くと、皆さん待ちかねたようにワッと受け取りに来られるのです。「ああ、本当に必要とされているんだ」という実感がありました。ラジオやテレビではどうしても広域の情報になってしまいますので、なかなか細かい情報は入手できなかったのです。

古森:まさに、地元紙にしかできない仕事ですね。

鈴木:それまでの私は、東京から家庭の事情で早目にこちらに戻ってきて、心の中では何かわだかまりのようなものがありました。でも、震災後の日々の中で、完全に吹っ切れました。

古森:運命のいたずらで動いてきたものが、英里さんの心の中で主体的な選択に変わった瞬間ですね。しかし、そのような状態の中で、社の経営は難しかったでしょうね。

鈴木:その通りです。3月末までは無料で避難所に配布していましたし、戸別配送を再開しても厳しい状況に変わりはありませんでした。社員の給与の支払いもままならなくなって、社長から、「当面給与を半分にせざるを得ない。それでも残ってくれる人は、残ってくれ」という話がありました。

古森:相当追いつめられていたのですね。それで、皆さんはどうされたのですか。

鈴木:誰一人として、辞めた社員はいませんでした。皆、この状況で地元紙が果たすべき役割を自覚していたのだと思います。

 

3. あえて花の特集を

古森:そうした緊急事態の時期が過ぎて、ある程度状況が安定してきたのは2011年の夏~秋頃でしょうか。その頃には、どんなことを?

鈴木:非常にデリケートな時期でしたね・・・。一般的に、全国をカバーするメディアでは、その頃から「人」にスポットをあてた番組や記事が出るようになりました。涙を誘う話、あるいは美談だったり、ドラマティックなものだったり。個人に密着したストーリーが、とりあげられるようになっていきました。

古森:たしかに、そういう形で個人のストーリーにスポットを当てた報道は、私もいくつか目にした記憶があります。東海新報さんでは、どうだったのですか。

鈴木:あえて、そういう路線の報道は避けていました。

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古森:避けていた?

鈴木:私たちは、例えばご遺族の方々にお話を聴きに行くなどということができませんでした。思い出すのもつらいはずだということが、痛いほど分かっていたからです。私たち自身が被災して、身内を亡くしたりしていましたから、どうしても”生々しい”感じがしてしまい、踏み込めませんでした。半ば言い訳ですが、被災された方々の心情を考えると、その時はまだ話を聴きに行くべき時期ではないと思っていました。

古森:ようやく危機を脱しただけで、心の傷は癒されていないし、まだ何も本質的には改善していない状況・・・。東海新報さんとしては、どんなことを報道されたのですか。

鈴木:編集部でも色々議論しましたが、基本路線は「ほっとできるような前向きな情報をできるだけ出していきたい」というものでした。私だったらどんなものが見たいだろうと考え、掲載したのは「花の写真特集」でした。

古森:花の写真特集?

鈴木:2011年というのは、木々の花つきが良かった年でした。「なり年」などというのでしょうか。気仙地域のあちこちで、美しい花々が咲き誇っていました。でも、被災した人に、花を見る心の余裕はありません。仮設住宅にお住まいの方々も多く、あまり遠出できない方もたくさんいらっしゃいました。

古森:2011年を振り返って、「花を見る余裕がなかった」という声を、私も一度ならず聞いています。皆さん、本当にそれくらい大変な状況だったのだと思います。

鈴木:ですから、私はあえて故郷の地に咲き誇る花を特集してみようと思いました。紙面全体を使って、花の写真を掲載しました。「花どころじゃない」「不謹慎だ」と言われるかもと不安もありましたが、数多くの読者から「あれは良かった、ほっとできた」という反響をいただきました。

古森:地元の目線が、生きましたね。

 

4. 何かがおかしい

古森:震災から一年が経つ頃には、どんな状況でしたか。

鈴木:その頃は、復興・支援系のイベントの取材に日々奔走していました。「こういうイベントがあるから取材してほしい」という声が色々なところから舞い込んできて、それを記事にしていくだけで一日が終わってしまいました。

古森:色々な声がかかったことでしょうね。

鈴木:そうですね。でも、私は「何かがおかしい」という感覚をぬぐいきれませんでした。「こんなイベントがあった」というような記事に終始していてよいのだろうかと。被災地の現実を考えたら、本当は、ほかにもっと載せるべきものがあるのではないか・・・。そんなことを考えながら、飛び込んでくる取材要請をこなすだけの日々が続きました。

古森:なるほど・・・。複雑な心境ですね。

鈴木:そこからの転機は、震災から1年半が経過した頃にお受けした夕刊フジの連載です。気仙地域の現実をふまえ、全国に向けて何を伝えるべきかを考えながら書いていく中で、東海新報としてすべきことも見えてきました。それをもっと掘り下げなきゃ、と思いました。被災地といっても場所によって状況は大きく違いますから、大上段に構えるのではなく、やはり自分の目で見て感じた問題を率直に伝えていこうと心に決めました。

古森:ある種の覚醒が起きたわけですね。

 

5. 黒子ポリシー

鈴木:私は、いつも自分のことを「記者」というよりも「黒子」だと思っているんです。「記者」だなんて、おこがましくて名乗るのが恥ずかしいくらいです。

古森:黒子、ですか?

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鈴木:新聞記者の中には、自分の言いたいことがまずありきで、それを事実として補完するために取材するという本末転倒な人もいます。意思や視点をもって取材することはもちろん大事ですが、こと震災関係の報道に関しては、私は、「見たいものがあるが見に行けない人の目になろう」「言いたいことがあっても声に出せない人の声になろう」と思っているのです。

古森:なるほど、それで「黒子」なのですね。当時、英里さんが代弁しなければと思った「声」とは、例えばどのようなものだったのですか。

鈴木:象徴的だったのは、「支援者目線への疲れ」とでも言いましょうか。被災された方々にとってあまり役に立たないことや、かえって負荷がかかるようなことも、実際はかなり起きていたのです。大変申し上げにくいことなのですが、支援する方々の満足が先に立つような場面が、震災1周年の頃から特に目立つようになっていました。

古森:この地域の人々は、批判的な言葉をほとんど表に出さないですからね・・・。何か不満や意見があったとしても、「せっかくボランティアで来てくれているのだから、悪くは言えない。我慢しよう。」ということになりがちですね。

鈴木:それはお互いにとって不幸なことだと思うのです。支援に来られる方々は、当然役に立ちたいと思って来て下さっているわけです。もし、それが役に立っていないのだとしたら、あるいは、逆に被災者の負荷になっているのだとしたら、やはり誰かが声をあげるべきだと思います。

古森:そういう声なき声を、黒子として代弁されたのですね。

 

6. 批判ではなく学びとして

古森:そして、震災2年が経過しましたね。3年目に入って、何かまた変化がありますか。

鈴木:あります。明らかに「空気が変わった」と感じるようになりました。

古森:空気が変わった・・・。例えば、どんなところで感じますか。

鈴木:震災遺族の方々とお話をしていて、「ああ、この人たちは今、話したいことがあるんだ!」と感じる場面が増えました。それまで遺族の方々への取材は極力控えてきましたが、前提が変わりました。「今こそ、聴かなければならない」と思いました。

古森:なぜ、モードが変わったのでしょうか。

鈴木:風化への危機感でしょう。まだ心の傷も癒されぬまま、「なぜあの人は死ななければならなかったのか」と、終わりのない問いを続けている遺族の方々も大勢いらっしゃいます。ここで風化させてしまったら、また将来同じように命を落とす人が出てしまうという危機感。そして、「あの人の死が無駄になってしまう」というやるせなさ。そうした虚しさや焦燥感の入り混じったものが急速に高まってきています。

古森:そうした中で、取材の方向性にも変化が?

鈴木:はい。「喪失と悲嘆」というタイトルの連載を始めました。遺族の方々のお話を伺って、当時のことを検証する試みです。検証していく中で、行政サイドの問題なども見えてきます。正直言って、書きにくいことが多いですよ。でも、今これをやっておかないと、これだけの災害から何も学ばなかったことになると思って書いています。批判ではなく、悲劇を繰り返さないための教訓を残して行きたいのです。

古森:なるほど。黒子としての今のミッションは、「あの人の死を無駄にしたくない」という遺族の方々の声を汲み取り、検証して、世に伝えていくことなのですね。

 

7. それでも美しい気仙の地

古森:あらためてこれまでの2年あまりを振り返っていただきましたが、時期により本当に色々な変化があったのですね。復興には10年単位の月日がかかると思いますし、これからも様々な変化が起きていくことでしょう。黒子としては、今後の活動をどのように展望しておられますか。

鈴木:そうですね。まず、この2年と少しの間でとてもクリアになったことは、「地元紙にいられて、こんなに幸せなことはない」ということです。

古森:それはとても大事なことですよね。

鈴木:地元の読者の皆さまと喜怒哀楽を共有しながら、復興をずっと克明に追っていくことができますから。黒子としての立ち位置を見誤らずに、その時々に地元紙に求められることをやっていくつもりです。

古森:黒子ポリシーは変わらないと。

鈴木:はい。そして、もう一つ思うのは、これだけの大災害が起きて変わり果てた姿を見ても、「それでもこの地は美しい」ということです。気仙地域は、本当に素晴らしいところです。こんないいところはないと思います。それを、他の地域に住む方々にも伝えていきたいですね。

古森:おっしゃることの意味、少し分かるような気がします。私、これが32回目の気仙地域訪問なのですが、結局、私自身がこの地を好きだから、こんなに何度も来ることが出来ているのだと思います。

鈴木:ありがとうございます。「かわいそう」だからではなくて、「いいところ」だからこそ、色々な人にこの地に来てほしいですね。

古森:今回は、海辺から野原、そして山の中まで色々と見て歩きまして、あらためてこの地域の自然の美しさに感動しました。堤防が壊れていても、そのすぐ先の海は透明で青く輝いています。野にも山にも花が咲き誇っています。食べ物も美味しいし、何より、素晴らしい人との出会いがたくさんあります。是非、地元紙にしかできない繊細さで、この地の良さを発信し続けていただきたいと思います。

そろそろお時間になりました。英里さん、今日は取材からの移動途中のお忙しい中にお時間をいただき、本当に有難うございました。

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(End)

※対談実施:2013年5月上旬 於:にじのライブラリー

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