ブログ

齊藤賢治さん(さいとう製菓株式会社 専務取締役)

復興対談シリーズ ~ Talk for Recovery の記念すべき第1回は、さいとう製菓株式会社 専務取締役 齊藤 賢治さんにご登場いただきます。さいとう製菓といえば、三陸銘菓「かもめの玉子」を作っている会社ですね。古森家でも大人気のお菓子です!

リンクはこちらです⇒ http://www.saitoseika.co.jp/top.php

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

復興対談シリーズ ~ Talk for Recovery (第1回)

さいとう製菓株式会社(大船渡) 専務取締役 齊藤 賢治さん
(対談実施:2012年4月下旬)

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
tfr01-01
古森: こんにちは。本日はお忙しいところにお時間をいただきまして、ありがとうございます。はなそう基金では、東日本大震災からの復興の現場で活動しておられる方々にお話を伺い、その対談記事を発信したいと考えています。本日の対談が、その第一弾となります。よろしくお願い申し上げます。

齊藤: 東京からわざわざ、どうもありがとうございます。こちらへはよくいらっしゃるのですか。

古森: 昨年(2011年)の9月から毎月陸前高田のほうに来ておりまして、その都度気仙沼や大船渡にも寄らせていただいています。11月から「Komo’s英語音読会」という、英語の勉強法を伝える会を陸前高田で開催しておりまして、半年あまりが経ちました。大船渡からの参加者もいらっしゃいますよ。

齊藤: そうでしたか。被災地に関心を持っていただける方々がいらっしゃるというのは、心強いことです。ありがとうございます。さて、何からお話ししましょうか。

古森: 大きくは三点伺えればと思っております。まず、震災当初の出来事について。齊藤さんご自身の体験として、津波について今思い起こされることはどんなことでしょうか。二つ目は、1年1ヶ月が経過した今、齊藤さんが感じておられる復興の課題は何でしょうか。そして最後に、今後のアクションについてです。

 

■ 齊藤家に伝承されてきた津波の記憶

齊藤: なるほど、わかりました。まずは震災当時のことですね・・・。

古森: はい。齊藤さんが撮影された地震発生の瞬間から津波到達に至る映像は、DVDで何度も拝見しております。まだ揺れが収まらないうちから、「津波、来る。避難して!」と社員の方々に呼びかけてまわる齊藤さんの声が強く印象に残りました。やはり、瞬時にそう判断されたのですか。

齊藤: あの時は、「これは、来る」と直感しましたね。実は、震災が起こる数年前から、月に1~2回の頻度で大津波が来る夢を見ていたのです。

tfr01-02
古森: ええっ。津波の夢を、ですか。しかもそんな頻度で繰り返し・・・。

齊藤: そうなのです。大きな揺れが来て、大津波が来て、逃げ遅れるという恐ろしい夢を、数年前から何度も見ていました。そして、今回の震災が来てから、その夢はぴたっと出てこなくなったのです。

古森: 一種の予知夢ですね。

齊藤: 震災の数日前にかなり大きな地震が来て、津波警報も発令されました。しかし、そのときは夢が現実になったという感覚はなかったのです。ところが、3月11日の揺れを感じたとき、「あ、これだ!」と直感しました。夢のとおりだったのです。ですから、当時社屋にいた27名の社員全員を避難させるのに躊躇はありませんでした。

古森: それで、被災した社屋におられた社員の方々全員が助かったわけですね。

齊藤: そうです。明らかに、「これだ!」と思いましたので。

古森: なぜ、齊藤さんはそれほどまでに津波に対する感覚が研ぎ澄まされていたのでしょうか。

齊藤: 子供の頃から父に何度も言い聞かされましたし、私自身も一度恐怖体験をしていますので・・・。

古森: お父様の代から。

齊藤: はい。父は昭和8年の大津波を経験していましてね。当時、電信柱によじ登って危うく命拾いをしたという経験を持っていました。その恐怖体験を、子供の頃から何度も聞かされました。

古森: なるほど、直接の体験談を何度も。

齊藤: その後の、昭和35年のチリ地震津波もありました。これは私も生まれていましたので、鮮明に記憶があります。遠い海の向こうの地震ですので、大船渡に揺れは来ないのです。突然津波だけが来る。でも、当時父が海の様子を見て、「何かおかしい、すぐ逃げろ!」と叫んだのです。

古森: 揺れがなくても、海の様子を見てそう判断されたのですか。

齊藤: 私たちは、半信半疑でした。それで、バイクだとか、当時高価だったものをせめて持ち出そうとしていたのですが、父に「今すぐ逃げろ」と一喝されました。それで、外に出てみると、もう波がそこまで来ているではありませんか。今回の津波のときと同じように、家が流れ始めていました。一目散に逃げました。

古森: 本当に、紙一重の差ですね。そこでお父様が海の様子に何かを感じていなかったら、もしかしたら・・・。

齊藤: だめだったかもしれません。津波は、たとえ50センチでも人間は立っていられなくて、いったん倒れたらもう飲みこまれてしまいますから。

古森: そういう先代からの言い伝えと自分自身の体験とが積み重なって、津波に対する感覚が研ぎ澄まされていたのですね。

齊藤: 昔から海のそばに住んでいる人々は、皆さんそうだと思いますよ。今回も、海沿いに住んでいた人々の多くは、迅速に避難行動をとりました。聞くところによれば、今回津波で亡くなった方々の4割くらいは避難行動をとっていなかったということです。沿岸部では、常に津波を意識して生きることが求められます。

■ 常に自分で判断することが重要

古森: 「大地震のあとに津波が来る」というリスクについては、多くの人が知っていることです。沿岸部では教育の中にも取り入れられていますし、避難訓練なども常時行われています。そうした中で、実際の発災時の行動に差が生じるのにはどのような事情があると思われますか。

齊藤: 「自分の判断で、すぐに動くことが出来るか」ということ。これに尽きます。

古森: 自分の判断。

齊藤: 今回は、「大丈夫だろう」と思ってしまう要因がいくつかありました。まず、数日前の大きな地震の後に、結局津波被害はなかったこと。これは決定的でした。そのとき津波が来なかったこと自体は幸運だったわけですが、その数日後に3.11の地震が来たというのはめぐり合わせが悪すぎました。多くの人が油断しやすい状態で、今回の津波が襲ってきたのです。

古森: DVDの映像の中では、津波が堤防を超えたことに驚く齊藤さんの声が聞こえました。これも多くの人々にとって想定外の要素ですか。

齊藤: そうです。チリ地震津波を受けて昭和40年ごろに作られた大きな堤防で、かなり高い波まで防げる構造になっていました。湾の入り口に大きな堤防があって、そこを通り抜けて入ってくる波をさらに湾内の堤防で二重ブロックするという構造です。その堅固な堤防を持ってしても、今回は駄目だったのです。

古森: まさかあの堤防を超えてくるとは、と思った人もいたことでしょうね。

齊藤: それから、ラジオではその日「津波は3メートル」という放送が繰り返されていました。どういう事情でそうなったかは分かりませんが、やはりそれも安心してしまう一因にはなっていたと思います。もっとも、ラジオさえ聞けない状態の人が多かったと思いますので、それが油断の主因ではないでしょうけど。

古森: いくつかの要因が重なった中で、「やはり今すぐ高台に逃げるべきだ」と自分で瞬時に判断することができたか否か・・・。

齊藤: 人間というのは、大きな災害の直後には強い危機感を持つのですが、どんどん忘れていくものです。昭和35年のチリ地震津波のときも、被災後数年間は沿岸部に人が降りてきませんでした。でも、10年ほどすると、やはり戻ってきたのです。そのうちに、普通の住宅なども建つようになっていきました。

古森: 津波の記憶が時とともに風化していく様子を、齊藤さんご自身も目の当たりにしてこられたのですね。

齊藤: これは、沿岸部に戻ることが良いとか悪いとか、そういう話ではありません。仕事や生活の必要性によっては、沿岸部に拠点を構えなければならない人々もいます。その場所が抱えているリスクを常に意識して、次の津波に備え続けることこそが重要なのです。

古森: 私が毎月お参りしている加茂神社の境内に、チリ地震津波のことを綴った句碑が建っています。でも、それを我が事として捉えて日常的に備え続けるというのは、なかなか難しいことですね。「忘れる」というのも人間の能力の一つで、忘れることが出来るからこそ物事をやり直せるという面もありますし・・・。

齊藤: 津波の記憶を伝える石碑の類は、東北の沿岸部にはたくさんあるのですよ。それでも、やはり津波が来るたびに大きな被害は起きます。風化させないこと、そして、ほかの情報にまどわされずに「すぐに逃げよう」という判断を、個人個人が下すこと。これ以外にないと思います。

■ 大船渡沿岸部の復興に向けた課題

古森: 大船渡に来るたびに、加茂神社の鳥居のあたりから港のほうを見ています。昨年9月に初めてここに来たときにはかなり瓦礫が残っていましたが、仮設店舗は来るたびに増えているのが分かります。大船渡被災エリアの復興は、齊藤さんの目にはどのように映っていますか。

齊藤: そうですね。震災後半年くらいのタイミングで、瓦礫の山の中で店を再興した「大鮨」(だいすし)の例もあります。役所からは思いとどまるように言われ、親族からも反対されながらの挑戦です。個別に見れば、こうした取組みがあります。一方、冷静に考えると、このままでは復興にはほど遠いと思います。

tfr01-03
古森: 現状の延長線上には、大船渡被災エリアの復興はないということですか。

齊藤: 震災前の状況に、一回時計の針を戻して考えてみれば分かることです。もともと、沿岸部の町はシャッターが閉まったままの店も多く、商売の町としては既に歯抜け状態になっていたのです。個々の店が仮にその状態に戻ったとしても、被災エリアの復興にはなりません。

古森: これを機に、新たな街づくりが必要ということですか。

齊藤: これからの復興の取り組みの中では、商売に対してやる気のある人の店を集めて、にぎわいのある街づくりをすべきです。また、そのために行政側である市役所と事業者側である商工会議所がしっかりと連携していく必要があります。区画整理などの実務が始まれば、色々な調整が必要になりますから。

古森: 復興のビジョンとともに、実務面でもかなりのリーダーシップが必要になるということですね。

齊藤: 昔の形から新しいものに作り変えていく際には、個々人のレベルでは必ず「損得」が出ます。その中で、一つひとつ説得して、全体の合意形成をはかっていく泥臭いリーダーシップが必要です。また、個々の事業者サイドでも、自分の利害だけではなく全体のために何かをするという姿勢が必要です。

古森: なるほど。被災地であろうとなかろうと、地方経済の振興を考える際に必ず出てくる議論ですね。それがここにもあると。むしろ、震災を機にそれが鋭角的に出てきているということなのですね。

齊藤: こういう場面では、自分の利益を抑えてでも将来の夢を語る、いわば「素晴らしいばか者」が必要です。

古森: 現時点では、その夢といいますか、復興の青写真のようなものはあるのですか。

齊藤: 復興計画の中で、ゾーン別の考え方はあります。住まいのエリアとか、にぎわいのエリアとか。しかし、その色分けをしたエリアの中味として、例えばどのようにして「にぎわい」を作るかという点は白紙です。

古森: 齊藤さんだったら、どんな絵を描かれますか。

齊藤: 私は、大船渡の特性を生かした設計にすべきだと常々話しています。まず、ここは豪華客船も入港できるような立派な港があるわけですから、「港」というものがテーマの一つになるはずです。

古森: やはり「港」ですか。先日も「にっぽん丸」が入港して話題になっていましたね。

齊藤: 例えば、「にっぽん丸通り」とか「飛鳥通り」とか、客船の名前にちなんだストリートを作るなどして、外から港に入ってくるお客さんが興味を持つような繁華街づくりをするとか。

古森: そういうことを、行政と商工会議所と個々の事業者が、立場を超えて腹を割って議論していく必要がありそうですね。それも、出来るだけ早い段階で。復興計画のスピード感というのは、どうなのでしょうか。

齊藤: 役所のほうでは、地盤をかさ上げして区画整理する工程で7~8年かかると見ているようです。これでは時間がかかりすぎです。事業主の立場では、待てるのはせいぜい2年です。2年でも、持ちこたえられない事業者はたくさんいるでしょう。個人経営のところなどは、2ヶ月止まるだけでも死活問題ですから。

古森: 地面のほうの準備が整うのが7~8というのは、事業の立場からは気が遠くなりますね。もっとも、行政のほうも想定される手続きや説得に要する時間を読んでそうせざるを得ない面があるのでしょう。やはり、先ほど齊藤さんが言われたように、立場を超えた協働がなければ沿岸部の復興は非常に厳しいですね。

齊藤: あるクリーニング屋さんでは、震災の少し前に1,000万円強の設備更新投資をしていて、それが全部流されて借金だけが残りました。もう再挑戦するという気持ちさえ起こらないそうです。そういう事業者がたくさんいます。長い年月が過ぎてしまうと、取り返しのつかないことになります。

■ ピンチはチャンスでもある

古森: どこかで誰かが、復興の歯車を回さなければなりませんね。

齊藤: 私は、やはり事業者側からグランドデザインを示していくべきだと言っています。役所も商工会議所も、「どうしましょうか」という状態になっていますので、事業を実際に担う人間がチームになって提案していくしかないでしょう。現状では、賛同して一緒に動いて下さる方々が少ないのが実情です。

tfr01-04
古森: 正念場ですね・・・。さいとう製菓さんとしては、その膠着状態の中で、何か次の展開にきっかけになるようなことを考えておられますか。

齊藤
: 実は、「津波博物館」の構想を温めています。

古森
: 津波博物館、ですか。

齊藤
: そうです。津波に飲まれて被災した社屋が、大船渡駅のそばにまだ建っています。あの社屋を補修して博物館にして、津波の映像なども見ることが出来るようにして、津波のことを後世に伝える場にできないかと思っているところです。

古森: 齊藤さんが DVDの映像を撮影された、配送センターだったあの社屋ですね。私も何度か前を通りました。かなり被害を受けているようですが、看板は残っていましたね。

齊藤: そうです、あの建物です。

古森: なるほど、今度は石碑ではなく、「実物」を残して伝えようということですね。そういうモニュメントが残っていれば、後世の人も津波の恐ろしさを肌で感じることが出来ますね。海外から訪問される方々も立ち寄る場になるのではないでしょうか。それを核に、街全体の構想も議論が進むといいですね。

齊藤: そう思います。津波は、来て欲しくなかった。こんな災害は、起きて欲しくなかった。しかし、起きてしまった以上、ここからがスタートなのです。見方を変えれば、ピンチはチャンスでもあります。これをチャンスと捉えて、まず自社だけでも出来ることを始めていければと思っています。

古森: 津波博物館の構想は、実現しそうですか。

齊藤: まだ分かりません。それなりに資金も必要になりますし、どのような形にすれば本当に意義のある博物館になるかなど、詳細を検討していかなければなりません。幸いにも、銀行や会計事務所の方々から協力の申し出もありますし、前向きに検討を進めていきたいと思っています。

古森: その動きが、街全体の復興の歯車を一つまわすことになるかもしれませんね。そうなることを祈ります。齊藤さん、本日は貴重なお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。私にも何か出来ることがありましたら、お手伝いしたいと思います。まずは、この対談記事を英訳して、日本の1億人ではなく世界の数十億人に伝わるようにしていきます。

齊藤: よろしくお願いします。

 tfr01-05

 

齊藤さん、ありがとうございました!

(終)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る