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安田信介さん(読売新聞東京本社 大船渡通信部 記者)

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                 復興対談シリーズ ~Talk for Recovery~

               (第13回)

                            読売新聞東京本社 大船渡通信部

                                         記者 安田信介 さん

 

[対談実施:2013年8月]
古森が月例の「Komo’s英語音読会@陸前高田」で陸前高田訪問中に、
食事でおじゃましていた仮設住宅にお越し頂く形で実施いたしました。

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1. 新聞記者になりたくて
2. 震災後のもどかしい日々
3. 大船渡通信部へ
4. 震災遺構をめぐる問題
5. 声を上げる人は少ない
6. 陸前高田未来作戦会議
7. 長野へ
8. 記者として人間として

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1. 新聞記者になりたくて

(古森) お忙しい中にお時間をいただきまして、ありがとうございます。安田さんは、全国紙の新聞記者として気仙地域に駐在されて、単なる記者としての仕事を超えた活動をしていらっしゃると常々お見受けしております。被災地の外から来て何か役に立ちたいという方々の参考にもなると思いますので、是非お話を伺えればと思った次第です。よろしくお願いいたします。

(安田) いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。取材される側になるというのは、なんだか落ち着かないものですね(笑)

(古森) ざっくばらんにお願い致します。以前少し伺いましたが、安田さんはキャリアの最初から新聞記者になられたわけではないのですね。

(安田) はい。最初は、大学院を出た後に、あるメーカーで一年ほど勤務していました。自動車部品の海外営業の仕事でした。

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(古森) 自動車部品の海外営業ですか。今とはかなり違う世界におられたのですね。そこから新聞記者に?

(安田) 当初から新聞記者になりたいという思いはあったのですよ。ただ、現実問題、最初の就職時にはその機会がなかったわけです。まずは巡り合った仕事をしてみようということで、そのメーカーに就職しました。

(古森) なるほど、志望は最初からあったのですね。転機は、いつだったのでしょうか。

(安田) チャンスは意外に早く巡ってきました。そのメーカーに勤務して一年ほど経ったときに、インドネシアの「じゃかるた新聞」が新聞記者を募集していることを知ったのです。おもに現地在住の日本人向けに発行されている日刊紙です。それで、結局そちらに転職をしまして、2006年2月から2009年8月までインドネシアで過ごしました。

(古森) 新聞記者デビューはインドネシアですか!そこから、日本の新聞社へ?

(安田) いえ、帰国してからは、「サンデー毎日」のライターとして働いていました。2011年の春に読売新聞に入社するまで、そちらにお世話になりました。

(古森) 震災の年に、読売新聞へ・・・。

(安田) そうです。ついに念願叶って日本の新聞社で記者になったのですが、最初の赴任を控えて束の間の休息をとっていたときに震災が起こりました。しかも、既に赴任地は岩手県の盛岡市に決まっていましたので、テレビで見ていて他人ごとではない気がしました。

(古森) 何か、運命を感じさせるスタートだったのですね。

2. 震災後のもどかしい日々

(安田) 4月に予定通り読売新聞に入社して、少し研修を受けた後、4月22日から盛岡に赴任しました。最初の一週間は、まあ雑用ですね。ファクスだとか、コピーだとかも含めて。3日目に取材に出してもらえましたが、最初は県警担当でした。震災の事とは直接関係なく、普通に県警担当としての仕事をすることになりました。

(古森) ご本人としては、すぐ近くで起きている震災のことが気になる中で、まずは担当業務をこなしていく必要があったのですね。

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(安田) そうですね。30才過ぎてからの新人記者ということで、一人で色々とこなしましたよ。仕事は増えていましたが、人員の枠は1名のままでしたので、一人で二人分の仕事をするような毎日でした。それでもまずは一生懸命に、半年くらいそういう状態で黙々と仕事をこなしていました。

(古森) 与えられた仕事の責任をしっかりと果たしつつ、心は、被災地の方を向いていたのでしょうね。

(安田) もどかしかったですね。色々と被災地の状況を知るにつれ、「こんなことをしている場合ではないのでは?」と思っていました。5月には、読売新聞主催の少年サッカー大会の関係で、ある男の子を訪ねて大槌に取材に行く機会がありました。その後も休みを使って大槌での取材を重ねまして、いくつか記事も書きました。ただ、あくまでも正規の仕事は県警担当でしたので、2011年は時折被災地に行く機会がある、という程度で終わりました。

3. 大船渡通信部へ

(古森) その後、今のご担当に?

(安田) はい。2012年の5月いっぱいで、それまで陸前高田をカバーしていた大船渡通信部の記者が異動しまして。

(古森) 席が空いたのですね。

(安田) それで、まあ白羽の矢が立ったと言いますか、大船渡通信部に異動することになったのです。

(古森) 思う方向に、運命が開けて行ったのですね。

(安田) そうですね。早速、気仙地域を中心に本格的に取材を重ねるようになりまして、陸前高田にも頻繁に来るようになりました。そして、今につながる色々な人との出会いがありました。

(古森) 2012年の6月頃と言えば、震災一周年が過ぎて、色々と現実的な問題が見え始めていた頃ですね。

(安田) そうです。私は特に、その頃からしばらくの間、いわゆる「震災遺構」(注:津波で壊れたまま残った建物等のこと)をめぐる問題に向き合っていました。このあたりでは、震災遺構のことに関してはもっとも多く取材した記者になっていると思います。

4. 震災遺構をめぐる問題

(古森) 震災遺構の問題というのは、安田さんの目には具体的にどのように写っていたのでしょうか。

(安田) 端的に言えば、「残すか、残さないか」という議論でした。私が地域住民の皆さんを個別に取材した範囲では、「残してほしい」という声がかなり多かったですね。「千年先に津波のことを伝えなければ」という声、「亡くなった親族の最後の場所を残しておいてほしい」という声など、色々とありました。それらの取材をもとにして、「母のいた場所を残して」という記事を書きました。

(古森) 最終的には、海沿いの一部の震災遺構を残す形にして、旧市街地のほとんどの部分は壊されて更地になりましたね。

(安田) 今となってはどうしようもありませんが、当時私が耳にした範囲では、「残してほしい」という声が多かったのです。

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(古森) そうした声は、市のほうには届かなかったのでしょうか。

(安田) どうでしょうね。このあたりの方々は、何か思っていることがあっても、それを本当に言うかというと、そうでもないわけです。もちろん声を上げた人もいたでしょうが、実際に震災遺構を残したいと思っていた人の声が素直に表に出たかと言えば、そうではなかったでしょうね。

(古森) 私も、よそ者としての目線では、被災した市役所や高田高校などは、世界の人々に津波のことを伝えるモニュメントにしたほうが良いと思っていました。しかし、それは地域住民と行政とで決めることですので、結果的に決まったことに対して、私としては賛成も反対もありません。ただ、もし多くの住民が本音で思っていたこととは違った方向に動いているのだとしたら、残念な気がいたします。

5. 声を上げる人は少ない

(安田) 震災遺構の件は、住民と行政の意思疎通に関して象徴的な出来事だったと思います。「思っていることを、公式には言わない」というのが、このあたりの人々のカルチャーの一部になっていますね。実際は皆さん色々な思いがあるのですが、表だって意見することは避けがちです。結果、行政が何かを決めた後にも、ずっと不満がくすぶるような構図があります。

(古森) これから何とかして新しい町を作って行こうとするときに、地域のカルチャーがそういう感じだと厳しいですね・・・。

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(安田) 今は町中にダンプカーが走って、あちこち盛り土や造成が進んでいます。住民の皆さんの中には、復興計画の方向性に異論を持つ人も多いようですが、やはり、その多くは表立った意見表明にはならずにここまで来ています。「本当は違う」と思っている人が多いのに、表には出さないのです。このままいくと、陸前高田の旧市街地は「かさ上げしたゴーストタウン」になってしまうのではないかと、私は危惧しています。

(古森) 「かさ上げしたゴーストタウン」・・・。そうならないことを祈りますが、住民の皆さんが本音で「こうあるべき」と考えていることと、結果として復興計画が動いていく方向に大きなずれがあるのだとしたら、先行きが心配ですね。

(安田) それで、心配ばかりしていても仕方がないので、自分で意見を言って動いていく人を増やしていこうということで、仲間と一緒に「陸前高田未来作戦会議」というものを立ち上げました。

6. 陸前高田未来作戦会議

(古森) 陸前高田未来作戦会議。意欲的な名前ですね。

(安田) 立ち上げたのは、2013年の2月です。地元の人と、外から来てこの地のために何かをしようとしている人とが集まって、とにかく動きを作って行こうということで始めました。

(古森) その動きは、どのようにして生まれたのですか。

(安田) 2013年の早春のことでした。私と仲間3名で、大船渡のある店でご飯を食べていたのですが、「陸前高田、なんとかしたいなぁ」「このままじゃ、良くならないよね」という議論になりまして。まずは、地元の若手の人々と一緒に勉強会をしてみようか、ということになったのです。それで、地元のNPOの方々や外部から来て活動している方々などにお声がけして、2月10日に初回の会合を持ちました。

(古森) どんな議論をされたのですか。

(安田) 最初は、とにかく陸前高田の復興に向けての勉強会です。「観光で人を呼ぶにはどうしたら良いか」「高台移転についてどう考えるか」など、いくつか具体的なテーマを設定して、それぞれ議論して行くことにしたのです。結局、第一回に設定した「観光」に関する議論が思いのほか広がりまして、当面の議題はそれにフォーカスする形になっています。

(古森) 私も、現実的に復興を考えた場合、地元だけで何かに取り組むのではなく、海外を含む外からの来訪者増が鍵の一つだと思っています。だからこそ「Komo’s英語音読会」などの「はなそう基金」の活動も、復興につながるはずだと思っています。それで、観光分野ではどんな議論になっているのでしょうか。

(安田) まずは自分たちで色々見てみようということになりまして。6月1日~2日に、未来作戦会議の仲間で大槌の取り組みを見に行きました。それに付随して、大槌からこちらにお越しいただいて、お話をうかがう機会も複数回ありました。

(古森) まずは、現地現物から・・・ですね。

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(安田) 8月16日~17日には、未来作戦会議のコア・メンバーで気仙沼大島の観光協会の事例を視察に行きました。しかも、その中心になっている人が、聞けば陸前高田出身者だということが分かりまして。陸前高田も頑張らないと、という感じになりました。

(古森) そうした活動を当面続けながら、何か具体アクションにつながっていきそうな種も見えてきていますか。

(安田) そこが最大の課題なのですが、現在、一つ具体テーマが出てきています。陸前高のある方が、「交流人口を増やそう」という強い思いをお持ちでして、そのために町づくりの会社を立ち上げようとしていらっしゃいます。

(古森) 町づくりの会社。

(安田) まだ構想段階ですが、「語り部ハウス」というコンセプトで、地元と来訪者との交流のハブになるような場ですね。この立ち上げを未来作戦会議としてサポートさせていただく中で、具体案を色々とおつなぎしていくようなことができないか・・・という議論をしています。

(古森) そのような場が本当にハブとしてにぎわっていくためには、いかに価値あるコンテンツを入れて行けるかが勝負ですね。

(安田) そうなのです、中身ですね。要は、ハードよりもソフトの方なのです。今進行している復興の取り組みというのは、いうなればハードの分野です。町の暮らしの土台であり、ビジネスの土台となる部分です。しかし、いかに枠組みや箱が整っても、中身に価値がなければ地元も活性化しないし、交流人口も増えないでしょう。ハードよりもソフトの部分で、自分たちで動いていって、そして成功した!というモデルケースを作りたいのです。

(古森) 地元の多くの人々が、「自分で動いてみようかな」「何か新しい挑戦をしてみようかな」と感じられるきっかけになる、成功事例を作ろうと。

(安田) なかなか、自分で動き出そうという人は少ないのが現状です。地域のカルチャーもあるでしょうし、あれだけの大災害ですから精神的ショックもいまだ癒えていない方も多くいらっしゃいます。しかし、やはり動いて行かなければならないと思います。この町の人々が前に進んでいくきっかけを作りたいですね。

7. 長野へ

(古森) 少し話は変わりますが、6月に長野に行かれたそうですね。仮設住宅のおばちゃんたちを連れて・・・。ちょっと、そんなことを小耳にはさんだのですが。
陸前高田から長野まで、いったい何をしに行かれたのですか。

(安田) 話せば長くなりますが、手短に言いますと・・・。高田高校第2グラウンドの仮設住宅で喫茶室を運営しているおばちゃんたちを、その喫茶室を支援して下さっている長野の「コーヒー日和」というお店にお連れしたのですよ。

(古森) なるほど。しかしなぜそこに安田さんが登場するのでしょう?

(安田) いえ、色々とご縁がありましてね。もともとは、2012年の夏に京都の僧侶で写真家・ジャーナリストとしてご活躍の岸野さんの取材がありまして、その際に高田高校第2グラウンドの仮設住宅に行く機会があったのです。そこでお会いしたおばちゃんたちが、「私たち、カフェやってるのよ」ということで、カフェにおじゃましまして。

(古森) 別件の取材で、たまたまそこを訪れたのですね。

(安田) はい。結局そのカフェに時々通うようになりまして・・・。やがて、おばちゃんたちの仮設住宅に上がり込んで一緒にご飯を食べるようにまでなってしまったのです(笑)

(古森) 取材も、ご縁だったのかもしれませんね。

(安田) そのおばちゃんたちの運営するカフェに、ずっとコーヒー豆などを支援して下さっていたのが長野の「コーヒー日和」さんです。おばちゃんたちは、手紙などもやりとりしていたのですが、やはり一度はお会いして感謝の意を伝えたい、と思っていたのです。今年の春先にそんな話をしている際に、私が「会いに行くべきだよ」と言ったところ、「でも、足がないねぇ」と。

(古森) それで安田さんたちが運転することに?

(安田) そうなのです。念願の「コーヒー日和」におばちゃんたちをお連れしました。先方でもスタッフの方々など関係者を集めて下さいました。おばちゃんたちは、感謝の言葉とともに手芸品などもお渡ししたりして、最後は「ぜひ陸前高田へ」ということで終わりました。ずっと一年間支援していただいて、直接お礼の言葉を伝えられないことが心にひっかかっていたのですね。ほっとしたようでした。

(古森) そして、陸前高田にとんぼ返りですか。

(安田) はい。息子さんが軽井沢で働いている人がいましたので、ちょっと軽井沢にも寄って親子の再会も果たしてから、一路陸前高田へと走りました。ちなみに、その時に買ってきたのが、今古森さんが食べている蕎麦です。

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(古森) あっ、これがその時の・・・。すみません、そんな貴重なものとは知らず。

8. 記者として人間として

(古森) しかし、未来作戦会議といい、長野往復といい、新聞記者の仕事とは直接関係のない分野にも、本当に突っ込んで活動しておられますね。その原動力は、何なのでしょうか?

(安田) 何なのでしょうかねぇ(笑)。この土地に来てからというもの、人に会うたびに、なぜか他人の町ではなくなっていくような感覚があるのですよ。家族みたいな人が、増えていくのです。

(古森) ははは、私と同じですね(笑)

(安田) そうなってくると、やはり記事にするだけではなくて、「本当に良い町になって欲しい」と思うわけですよ。自然に「陸前高田心配だなぁ」と思ってしまうのです。

(古森) 惚れてしまいましたね・・・。これから、どうなっていきますかね、この町は。

(安田) 残念ながら、ハードの面ではどうしようもない状況が長く続くと思います。しかし、それでも何かやりようはあるはずです。ハードではなくソフト。そして、ソフトの鍵は「人」だと思います。先ほども申しましたように、微力ながらも働きかけて行くことで、「自分で動けば何かが起きて行くんだ」と立ち上がる人々の流れを、この町に呼び覚ますお手伝いが出来ればと思っています。

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(古森) そうした中で、「記者としての安田さん」と「人間としての安田さん」が、どうつながっていくのでしょうか。

(安田) 私は、記者であることと個人としての問題意識とが、乖離しないようにしたいと思っています。記者にも色々なスタイルがありますので、皆がそうでなければならないとは思っていません。しかし、私としては、記事を書くために人間関係を作るとか、そういうことはしないようにしています。普通にそこにいる人々の中に入らせていただいて、普通にお付き合いして、そして、そこから見えてくる課題を記者として世に問うていきたいと思っています。

(古森) 良い意味で公私混同なわけですね。人間として生きる安田さんという人物がいて、その人物が、ある時は記事を書き、ある時は地域振興の推進をし、そしてある時は長野まで走ったり・・・ということですね。根っこは一つで、表現する場が色々ある。そういうことなのですね。

そろそろお時間になりました。安田さん、今日はお忙しい中に貴重なお話をお聞かせ下さり、本当にありがとうございました。私も外から陸前高田に通う身として、自分の思いを再確認する機会にもなりました。

(終)

 

 

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