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臼井壯太朗さん(株式会社臼福本店 代表取締役社長)

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復興対談シリーズ ~ Talk for Recovery

第4回 株式会社臼福本店 代表取締役社長 臼井 壯太朗 さん

(対談実施:2012年9月中旬)
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古森:こんにちは。本業にも復興関係にも飛び回っておられる中、お時間をいただきましてありがとうございます。

臼井:いえいえ、こちらこそ時間がタイトになってしまいまして恐縮です。ちょうど今、市役所での会議から戻ってきたところです。

古森:本当にお疲れ様です。

臼井:何からお話ししましょうか。

古森:大きくは三つのことを伺えればと思います。まず、改めて震災発生当時のご記憶をたどって、印象に残っていることは何でしょうか。二つ目は、臼井さんが感じておられる復興の課題について。そして三つ目は、実際どうしていくかということです。臼井さんご自身の取り組みも含め、お聞かせ願えればと。

臼井:なるほど、わかりました。

 

■ 逃れた山の上から見た水平線の白い壁

古森:震災発生当時は、お仕事中でしたか。

臼井:はい、普通に事務所にいました。うちは遠洋マグロ漁業の会社ですので、常時7隻ほどの船を世界中の海に送り出しています。遠くの海に散らばっている乗組員の情報のハブになり、留守中の家族の世話なども含めて面倒を見るのが我々本社の仕事です。その日も、港に面した社屋でいつものように仕事をしていました。

古森:そして地震が来た・・・。

臼井:地震には慣れていますし、緊急地震速報を聞いても普通に皆仕事をしていました。しかし、なかなか揺れが収まりません。そのうち、神棚がパソコンの上に落ちてきたり、窓枠が落ちてきたりして、「これは、ちょっと違うぞ!」と。「揺れが収まったら外に出るぞ」と呼びかけたものの、一向に揺れが収まらないのです。

古森:いつもの揺れとはまったく違っていたわけですね。

臼井:少し揺れがゆるくなったので外に出ました。そしたら、もう道路が液状化して水が噴出していました。すぐに、津波が来ることを確信しました。みんなに「津波が来るから山に逃げるぞ。貴重品とパソコンだけ持っていけ!」と呼びかけて、車で裏山に逃げました。

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古森:経営者としては、瞬時に避難の判断をされたわけですね。従業員の方々は無事避難できたのですか?

臼井:うちの従業員は全員無事でした。パソコンを持ち出したのも正解でしたが、肝心の経理のパソコンだけ忘れてしまいました(笑)

古森:そして、裏山の上から津波が来るのを見ていたわけですか。

臼井:そうです。裏山に続々と人が逃げて来る中で、まだ地面は揺れ続けていました。ふと沖のほうに目をやると、何か白いものが見えてきたのです。なんだろうと思ってテレビ局のカメラで見させてもらったら、水平線に白い壁のようなものが見えました。

古森:その距離で壁に見えるのですから、とんでもない高さですね。

臼井:まだ合流できていない社員や家族に、必死に携帯のショートメールを打ちました。電話はパンクしていましたが、ショートメールは使えたのです。「死ぬぞ、死ぬぞ、逃げろ」という短いメールを打ち続けました。

古森:その緊迫感、想像を絶するものがあります。

臼井:そのうちに津波の第一波が到達しました。港の入り口には重油のタンクがあって、まずそれがちぎれて流れました。次々に漁船が流されて、くるくる回っていました。波が押し寄せ、川を遡上して、町を押しつぶしていくのが見えました。

古森:目の前で、その光景をじかに・・・。

臼井:ちぎれたタンクから流れ出た重油がどこかで引火して、海が燃え上がりました。火の津波です。陸に火とともに押し寄せて、そして、火を残して引いていくのです。恐ろしい光景でした。

古森:気仙沼の火事は、あの夜、テレビのU STREAMでも中継されていました。私は帰宅難民化した社員と一緒に新宿のオフィスでそれを見ていました。ほんとうに、地獄絵図だと思いました。忘れられません。

臼井:下の産婦人科にまだ人がいるということで、皆で助けに行きました。赤ちゃんを産んだばかりの人もいて、まだ血を流している状態でした。火が回ってくるので、皆で運び出して、警察を先頭にして雪の中を移動しました。山のほうにも火が回るかもしれないということで、山道を抜けて逃げました。やがて父の家にたどり着き、そこでようやく家族とも合流できました。

古森:よりによって雪でしたね。あの惨事の中でさらに雪が降るということが、ことさら辛かったというお声も色々なところで聞きました。

臼井:津波が去った後は、やはり自宅や会社のことが気になるので現場に戻りました。ほとんど全部流されていましたが、かろうじて事務所の神棚は残ったので、ここの仮店舗に持ってきました。

古森:自然を相手に生きる方々は、神棚を本当に大事にされますね。

臼井:しかし、最初の頃は本当にひどくて・・・。多くのご遺体・・・。そんな惨劇の中で、自動販売機や企業の金庫は津波翌日から荒らされ、ご遺体が身につけていたものは外国の窃盗団に奪われました。人が殺された場所もあると聞いています。

古森:救援の手よりも早く窃盗の手が伸びた・・・。なんとも嘆かわしいことですね。震災下の秩序ということで海外のメディアにも美談が報じられましたが、場所によっては色々とあったのですね。

臼井:財産も家族も失って自暴自棄になった人が、被災していない内陸の家屋に放火したり、半壊だと保険が出ないという噂から自宅を燃やしたり、という事件もありました。私も怖くなって、水につかりながら自宅周辺のガス栓を閉じてまわりました。

古森:しばらくは、そうした混乱の日々だったのですね。

臼井:最初の一ヶ月は、家と会社の整理、そして船員を含む従業員の家族関連の情報収集に奔走しました。我々本社は、沖にいる船員たちと陸との情報のハブです。そのハブが機能しなくなると、沖にいる人たちは不安になります。震災後一週間くらいしてAUがつながったので、AUの携帯を人から借りて、沖の船員たちと連絡をとりました。

古森:沖にいる人たちも、さぞ不安だったことでしょうね。

臼井:遠洋ですから、帰ろうと思っても、すぐに帰れる距離ではないのです。ですから、沖のほうでは「俺たちは大丈夫。少しでも魚をとり、お金を持ち帰るのが俺たちのやるべきこと。そっちのことは頼んだ」ということになり、こちらでは「ありがとう。こっちは俺たちに任せてくれ」ということで、船員の家族の安否確認などに全力を注ぎました。

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古森:沖の人たちにかわって、家族同然に一生懸命に動く。

臼井:船員の留守家族を守るというのも、私たちの仕事なんですよ。遠洋漁業をやっていますと、親の死に目に会えないことがほとんどです。沖の乗組員に代わり、焼き場まで行って、お骨を拾うところまで、私たちの仕事なのです。

古森:食卓に並ぶ魚の背景には、そういう連綿たる人間の営みがあるのですね。震災時ならずとも、本当はそれを知って食卓に向かいたいものです。

■ 進まない瓦礫撤去 ~ 根深い構造問題

古森:さて、復興の課題ですが、復興と一概に言いましても実像は様々です。瓦礫撤去などの初期的作業も一筋縄ではいかないようですし、その後の計画づくりや実行段階の課題も、地域ごとに山ほど残されていると聞きます。

臼井:おっしゃるとおりで、文字通り課題山積です。

古森:私は昨年9月から毎月、お隣の陸前高田に通っているのですが、その都度気仙沼や大船渡などにも寄らせていただいています。それらの町を同時並行的に見ていて思ったことは、瓦礫撤去ひとつとっても町ごとに進捗度に大きな差があるということです。昨年秋頃までは、気仙沼は瓦礫の撤去が進んでいないという印象を持っていました。現地の内情としては、どうなのでしょうか。

臼井:実際そのとおりでした。これには事情があります。一言でいえば、過度な地元志向が瓦礫撤去の進行を阻んでいたのです。

古森:過度の地元志向・・・。

臼井:瓦礫撤去に従事する土建業の世界には、地域ごとに地場企業の住み分けのようなものがあります。しかし、今回のような緊急時には、防災協定にしたがって平常時の枠組みを越えて、県が他地域のゼネコンに応援を要請するのが常識です。ところが、気仙沼は他の地域と違い、すぐにその応援要請を出さなかったのです。

古森:災害の緊急時でも、平常時と同じように地元企業で対処すると。

臼井:「このままでは瓦礫の撤去さえ進まない」と思いました。折しも、近隣の建設業の知人から「何か支援できることがあれば」というお声がけがありました。その会社は瓦礫撤去の経験もあり多くの機材も持っていたので、弊社の子会社の資材会社がその会社と協働する形で瓦礫撤去の活動に参加することにしました。

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古森:必要性を感じて、現場で動き始めたわけですね。

臼井:ところが、動き始めてから色々なサボタージュを受けました。まず、なかなかやらせてもらえない。瓦礫撤去のお金にもいくつか違う出所があるので、出所によっては何とかやらせてもらえる、というような状況でした。現場に行く道すがら、「こっちを通れ」と遠回りをさせられたり、それで現場に行くと先回りされていたり。

古森:本当にそんなことがあるのですね。

臼井:さらに、曲がりなりにも瓦礫撤去に参画して動き始めてみると、大きな構造問題に気づかされました。あんなにトラックが入っているのに、その割には瓦礫がなかなか減らないのです。おかしいなと思ってよく調べてみたら、瓦礫撤去の費用は「一日一台あたりいくら」という払われ方をしていたのですよ。

古森:一日あたりいくら?

臼井:つまり、たくさん積んで早く撤去してしまうよりも、出来るだけ少なめに積んで長い日数をかけるほうが儲かる構造になっていたのです。事実、サラっとしか瓦礫を積まないトラックが、街中に数多く見受けられました。

古森:・・・(絶句)

臼井:ほどなく、「オール気仙沼」で片付ける会というのが発足しました。入手した発起人会のFAXを見たら、要は気仙沼の業者だけで片付けようという趣旨になっていました。そこで、「どうして弊社は呼ばれないのか?」と聞いたら、「登録業者じゃないから」と。「なぜ邪魔をするのですか?」と聞いたら、「臼井さんも入れるようにするから待って」と言われたまま、結局は外されたままでした。

古森:復興の基礎作業である瓦礫撤去が、「何をするか」ではなく「誰がするか」で動いていたわけですね。世界人類、どこにでもそういう話はありますが、ここ日本で聞くとやはり寂しい気持ちになります。

臼井:やがて我々に力を貸してくれる地元や県外の方々も現れて、最終的には数社で力を合わせて動いていきました。手前味噌ですが、私たちが動いていなかったら、年明けになっても瓦礫撤去は出来ていなかったと思います。 その後、資材の子会社のほうには、ある地元大手土建会社からの発注は全くなくなりました・・・。

古森:港の周辺をまわると、昨年秋頃の状況に比べて、ずいぶん変わったということが分かります。一方、まだ基礎などが残っている場所も多いですね。

臼井:ここから先、今度は基礎を壊し、地下の下水管なども撤去して、新しく管を通して、それから土を被せて、という作業が必要です。これも気仙沼だけでなく全国から広く力を借りてやっていくべきでしょう。被災していない地域では、そろそろ震災のイメージは風化しつつあります。他の土地から作業に来てもらえば、そうした風化を防ぐことにも一役買うものと思います。

■ 銀座での挑戦

古森:臼井さんは、震災直後からテレビに出演されたり、銀座の阪急のビルで気仙沼のプロモーション・スペースを運営したり、最初から全国を意識した活動をしておられますね。そのあたりの話も少しお聞かせ願えますか。

臼井:話の発端は、震災前にまでさかのぼります。もともと「TVタックル」に出ていた関係で、震災後にスタッフから電話がありました。たけしさんからの指示で出演者全員の安否確認をしていて、私だけなかなか連絡がとれていなかったということでした。電話が通じたとき、スタッフの方は泣いておられました。

古森:海のそばで暮らしておられたのを皆知っていたでしょうから、なおさら心配されたことでしょうね。

臼井:それで、まずはスタッフの方がこちらに取材に来られたので、現地を案内してまわりました。そうこうするうちに、スタジオに来てくれと。これは、状況を考えていったんお断りしました。

古森:それは、そうでしょうね。

臼井:ところが、父に相談したら、「被災した人たち、みんなのことを伝えるいい機会だ。行ってこい!」ということで、行くことに決めました。スタジオに行く前日に大きな余震があり、直前まで迷いましたが、父が「俺に任せろ」というので・・・。それが一番心配だったのですが(笑)

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古森:それで、出演されて。

臼井:スタジオには、私と、福島の会津から来たおばちゃん。そこから、色々と動き始めました。まず、番組が流れた後に、阿川さんから「東京でチャリティー・ディナーショウをやるから、来れない?」と言われました。「預かりに来るだけでいいから、来れないか」と。

古森:とりあえず、行かれたわけですね。

臼井:はい。そうしたら、会場には各界の著名人がたくさん来ておられて、そこで東急不動産の金指社長や服部セイコーの服部会長とのご縁をいただきました。中でも金指社長は、「被災地で何か応援をしたい」と申し出たら断られたということで、「気仙沼はチャンスを逃しているぞ」と言われました。

古森:その縁から、銀座の話に。

臼井:はい。その後、金指社長とお話をしていくうちに、2012年9月に解体予定のビルが銀座にあるから、空いているスペースを自由に使っていいぞと言われました。突然の話だったので躊躇したのですが、気仙沼に戻って地元の若手の方々と話をしていたら、「それは何かやるべきだ」と。それで、お願いすることにしたのです。

古森:実際、そのスペースでどんなことをされたのですか。

臼井:あくまでもオープンなやり方にしようと思いまして、まずは気仙沼商工会議所に話をしました。その後、日本商工会議所に声をかけていただき、被災した沿岸部の15箇所の商工会議所にも声をかけていただきました。結果的には10箇所がこれに呼応してくれました。

古森:オープンにやる、というのは臼井さんの信条ですね。

臼井:ところが、いざ「やる」という段階になり商工会議所にバトンを渡したら、パッタリと連絡が来なくなったのです。業者もぜんぜん集まっていない様子。おかしいなと思って調べてみたら、なんと出店者から口銭を取る話になってしまっていたのです。

古森:そこでもまたお金の話ですか。

臼井:ちょっと待て、と。復興支援で金指社長が無償で手を差し伸べてくれているのに、そのスペースを使って口銭を取るなんてありえないでしょう。事情を聞けば、商工会議所は商工会議所で、ここで稼いで雇用につなげたいという話でした。気持ちは分かりますが、筋違いです。やむなく割って入って、参加候補事業者の方々に「口銭はゼロにします」と宣言しました。

古森:何か機会があっても狭い範囲に閉じた話になってしまって、なかなか開放系の方向に進まない感じですね。

臼井:その後もまだ一山ありました。紆余曲折を経てスペースが銀座にオープンしたのが去年(2011年)の10月初旬です。ところが、オープンしてからまた連絡が来なくなったのです。それで、おかしいなと・・・。

古森:連絡が途絶えると、いつも何かあるのですね(笑)

臼井:銀座に見に行ってみたら、エキナカの物販みたいになってしまっていたのです。「これじゃあ、だめだ」「単にモノを売るんじゃない。モノに込められた想いを伝えなければいけないんだ」など、思ったことを言いました。そこから先、私もトータルアドバイザーということで活動に主体的にかかわるようにしました。

古森:つべこべ問題を指摘するのではなくて、もう、「こうしよう」と。まさに、リーダーシップですね。

臼井:目玉としては、今回の震災を機に色々な知り合いができたので、そういう人々にも声をかけてイベントを開催しました。しかし、当初思ったように人が集まりません。そこで助けて下さったのが、先ほど触れたチャリティー・イベントで縁をいただいた服部会長です。案内のFAXを持って銀座連合会へ行って、銀座の店舗全体に情報を流して下さったのです。それで、銀座の人たちもだんだん集まっていただけるようになりました。

古森:震災後の混乱期に、無理をしてでも東京に出てきて生まれた縁が、色々なところで生きているのですね。

臼井:銀座のスペースは期限が来て終わりになりましたが、今後も第二幕、第三幕ということで、東京で何かを仕掛けていこうと思っています。東急不動産の金指社長さんも、何らかの形で今後もサポートしていただけるということです。まだまだ、これからです。

 

■ 震災で気づいた三つの大事なこと

臼井:そんな感じで、振り返る間もなく走りながら色々とやってきましたが、この震災で気づいたことは三つあります。

古森:三つ。是非お聞かせください。

臼井:一つ目は、エネルギーの大切さ。ガソリン、電気。震災後、エネルギーが不足して非常に不便な思いをしました。エネルギーは、本当に大切です。

古森:被災地だけでなく、震災後しばらくは東日本の広い範囲でエネルギー不足に関する苦労がありましたね。産業にも少なからず打撃がありました。

臼井:二つ目は、食の大切さ。危機的状況にあっては、着るものは一週間以上同じものでもなんとかなります。住むところは、雨風がしのげれば、まずは大丈夫です。でも、食がないと生きられない。本当に、それを痛感する機会になりました。

古森:まさに、食は命の源泉ですね。震災後、十分に食事がなかったという避難所の話なども聞きました。

臼井:そして三つ目は、人のつながりの大切さ。都会に住んでいたら、なかなかつながりがないじゃないですか。都会ばかりでなくこっちのほうでも、震災前はつながりが薄れてきていました。

古森:震災後に、「絆」という言葉も脚光を浴びましたね。

臼井:震災後は、お隣の奥さんが見つかって、お互い泣きながら握手したり、「がんばろうね」「いい天気だね」と声をかけあったり。人と人の間の会話が増えたように思います。

古森:他の地域でも、そういう話をよく聞きます。

臼井:日本が発展していく過程で、「人のために何かをする」というのが薄れていって、それで日本経済は駄目になったんじゃないでしょうか。人のつながりが本当に大事なんだということに、震災を経て改めて気づかされましたね。

古森:二番目の「食」の視点などは、まさに漁業者である臼井さんの本業の話でもありますね。そもそも、臼井さんは震災前から地元の食育にも携わって来られたとか。

臼井:そうなのです。学校給食を100%地産地消にしようという運動を推進していました。

古森:100%地産地消。

臼井:昨今、国境周辺で緊張が高まっていますが、「国土を守る」ということを突き詰めて考えると、実は農業や漁業などの一次産業の重要性が見えてきます。一次産業を大事にしない国では、それでは満足に生活していけなくなるので、多くの人が耕作放棄したり、かつて漁業で暮らした島から出て行ったりします。

古森;実際、それが日本中の田舎で起きていますね。

臼井:よく、「中国の人々に日本の土地が買われている」「島が買われている」などという話を聞きますが、根本的にはその土地で一次産業が成り立たなくなっていることが背景にあるのです。海で言えば、国境や海域を守ってきたのはそこで生活していた漁業者でした。産業として振興されず、従事する人間が誇りを持てず、後継者が育たないから廃れてしまうのです。

古森:だから、食育にたどりつくのですね。

臼井:そうです。根本的には、日本人はやはり日本の一次産業で得られた地元の食材の良さというものを、もっと知るべきだと思うんですね。気仙沼には、すごい賞をとっている一次産品があるわけなんです。では、なぜそれが十分に認知されて使われないか?答えは簡単で、多くの人が価格しか考えずに食品を買うようになったからです。

古森:食品の価格だけでなく、価値をみなければならない・・・。

臼井:価値を理解するためには、子供の頃から食というものに対して正しい認識を持つ必要があります。それぞれの食材がどこから来て、それをもたらした人々がどんな工夫や苦労をしてきたのか。またその生き物は、どんな生き物なのか。命に対する感謝の気持ちというものも同時に考えていかなければいけないと思います。

古森:単に食べてカロリー摂取するだけではなくて、そういうストーリー、質的なものまで子供のうちから理解できるようにしたい、ということですね。だから、学校給食で地産地消の食育をすることに意義があると。

臼井:そう信じています。もっと大きな国防的視点で考えても、自国の食料生産をおろそかにする国など考えられません。食料安全保障というのは、もっと真剣に取り組まれるべき課題です。なのに、政府は自動車などの工業を過度に重視して、一次産業の発展に本腰を入れてきませんでした。

古森:発展を助ける方向ではなく、色々と補助しながらも結局は衰退させるような結果になっていますね。

臼井:そればかりか、国際的なせめぎあいの場では、一次産業の犠牲と引き換えに鉱物資源の権益交渉を援護するようなことが起きています。報じられていませんが、実際は海の上で諸外国との間にひどいことが起きているのですよ。日本の水産資源は、荒らされています。日本人の食に対する価値観を変えていくことで、この流れをもう一度、何とかしたいのです。

古森:以前から取り組まれていることに加えて、今後の復興フェーズの中で何か取り組まれることはありあすか。

臼井:「気仙沼海洋公園プロジェクト」というものを進めています。

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古森:海洋公園?

臼井:気仙沼の水産業が培ってきたものの集大成を、日本のみならず世界中の人々に伝えられるような場を作りたいのです。

古森:水族館・・・などでしょうか。

臼井:それもあります。しかし、単に大きな水族館を作るという話ではありません。水槽の中にはリアルな三陸の岩場を作り、ワカメや牡蠣の養殖などの様子もそのまま下から覗けるようにしてはどうかと。魚も、本当に三陸の定置網にかかるような魚種、漁船が獲っている魚たちを泳がせたいですね。

古森:三陸の海を再現。

臼井:さらに、色々な人が来て気仙沼の水産業を学んで帰れるような要素も盛り込みたいと思います。実際の漁船のトイレを設置する。水上タクシーが走る。あるいは、キッザニアのような感じで、子供が実際の作業を体験できるような場も豊富に用意したいですね。

古森:水産業分野の体験型学習は、面白そうですね。大人でも楽しめそうです。私も昔は釣りキチ少年でしたし・・・(笑)

臼井:食べるところも、郷土料理をしっかりと打ち出して行きたいです。今、フードニスタの浜田峰子さんにもお願いをしております。世界に伍していけるシェフも気仙沼にいますし、そういう方々の技術を生かして、本当に最高水準の食を提供していく。そんな場が出来たらいいなと思って、プロジェクトを推進しているところです。

古森:常に、思ったことは行動!ですね。

臼井:震災は惨劇でしたが、それがきっかけになって色々な人との縁が生まれ、ネットワークができました。そのネットワークを生かせば、すごいことができそうな気がしています。そこから実際に何をするかが大事です。「エネルギー」「食」「人のつながり」などの大切さを世に訴えていくことを通じて、気仙沼の復興に貢献できたらいいなと思っています。これから気仙沼で起きることが、最終的には日本を変えていくはずだと思って、これからも取り組んでいきます。

古森:ミッションが宿っておられますね。あぁ、気がついたらもう時間です。臼井さん、今日は貴重なお話を聞かせて下さり、本当にありがとうございました。復興も人間業である以上、一筋縄ではいかず、さまざまな現実的困難がありますね。それでも、「こうあるべき」という信念を持って進む人がいる限り、やがて大きな流れになっていくものと思います。気仙沼の復興を心よりお祈りいたします。

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(終)

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