伝えていく
はなそう基金は、甚大な被害をもたらした東日本大震災の被災地で活動する一員として、2011年の東日本大震災からの学びを伝えていくことも重要な役割と考えております。震災から年月が経つにつれ否応なく薄れていく被災地への関心、天災への備え、震災からの学びを”伝える”ために様々な活動を行っております。はなそう基金が法人として解散したあとも、はなそうコミュニティとして趣旨を引き継いでおります。
はなそうツアー(被災地ツアー)
域外の方々にいらしていただけること自体が復興の力になります。三陸地域の被災地を訪れ、復興の現状を見たり、地元の方々と話したりするツアーを開催していました。現地に知己のあるはなそう基金の会員がボランティアでご案内しておりました。現在募集は終了しています。
2017年
- 2017年第2回 はなそうツアー 南三陸町(2017年8月5-6日)
- 2017年第1回 はなそうツアー 大船渡(2017年4月1-2日)
2016年
- 三鉄貸し切りカラオケ列車 & はなそうツアー 2016 (2016年12月5-6日)
- 2016年第4回 はなそうツアー 大船渡 五年祭
- 2016年第3回 はなそうツアー 陸前高田~大船渡(2016年8月27-28日)
- 2016年第2回 はなそうツアー 陸前高田 七夕~気仙沼 港まつり(2016年8月6-8日)
- 2016年第1回 はなそうツアー 南三陸町~石巻(2016年7月9-10日)
2015年
- 2015年 特別企画 三鉄貸し切りカラオケ列車 & はなそうツアー(2015年12月5-6日)
- 2015年第6回 はなそうツアー:気仙沼~陸前高田~大船渡(2015年11月28-29日)
- 2015年第5回 英語ツアー for アメリカからのお客様 (2015年10月18日)
- 2015年第4回 はなそうツアー:気仙沼~陸前高田~大船渡(2015年9月12-13日)
- 2015年第3回 はなそうツアー:南三陸町~気仙沼~陸前高田~大船渡(2015年7月11-12日)
- 2015年第2回 はなそうツアー:気仙沼~陸前高田~大船渡(2015年6月6-7日)
- 2015年第1回 はなそうツアー:気仙沼~陸前高田~大船渡(2015年4月11-12日)
- 2014年
- 2014年 特別企画 三鉄貸し切りカラオケ列車 & はなそうツアー/屋内ミニSCOAキャンプ(2014年12月6-7日)
- 2014年第5回 はなそうツアー:気仙沼~陸前高田~大船渡(2014年11月22-23日)
- 2014年第4回 はなそうツアー:気仙沼~陸前高田(2014年9月13-14日)
- 2014年第3回 被災地ツアー:気仙沼~陸前高田~大船渡(2014年8月9-10日)
- 2014年第2回 はなそうツアー:南三陸~気仙沼~陸前高田(2014年7月5-6日)
- 2014年 第1回:被災地ツアー (2014年5月)
- 2014年[特設]英語はなそうツアー(2014年4月12-13日)
- 2013年
- 2013年第6回 被災地ツアー:南三陸~気仙沼~陸前高田(2013年12月)
- 2013年第5回 はなそうツアー:気仙沼~陸前高田~大船渡(2013年10月19-20日)
- 2013年第4回 被災地ツアー:気仙沼~陸前高田~大船渡 w/Light Up Nippon(2013年8月)
- 2013年第3回 被災地ツアー:南三陸~気仙沼~陸前高田~大船渡(2013年6月)
- 2013年臨時 大学生被災地ツアー(2013年4月)
- 2013年第2回 はなそうツアー 南三陸~気仙沼~陸前高田(2013年3月30-31日)
- 2013年第1回 被災地ツアー:気仙沼~陸前高田~大船渡(2013年3月)
- 2012年
- 年末の訪問(2012年12月)
- 2012年 被災地ツアー(2012年11月)
- 2012年 被災地ツアー(2012年10月)
- 2012年 被災地ツアー w/Light Up Nippon(2012年8月)
- 2012年 弾丸ツアー(2012年7月)
- 2012年 ゴールデンウィーク前半は東北へ 南三陸~大船渡~陸前高田(2012年4月)
- 2012年 震災から一年(2012年3月)
復興対談
震災後、力強く立ち上がる地元の方々の生の声をお伺いし、対談という形式にまとめております。震災からの学び、新たに生業を生み出す努力など、時代や場所に関わらず当てはまるものが少なくありません。
≫ 詳しくは、復興対談ページへ
「The Seed of Hope in the Heart」(被災と復興手記/佐藤貞一)
佐藤たね屋店主佐藤貞一さんによる被災及び復興の手記。当初英語版「The Seed of Hope in the Heart」が佐藤さんご自身の手によって綴られ、その後多国語にて作成されました。佐藤さんは震災前まで英語を得意としておらず、手記を綴るにあたって新たに学ばれました。中国語、スペイン語も同様です。
≫ 詳しくは、佐藤貞一さんページへ