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ゴールデンウィーク前半は東北へ② 大船渡~陸前高田

4月29日(日)

濃すぎる初日が終わり、2日目の朝。ゆっくり寝ようかと思ったが、いつもの早起きが体にしみついていて、自動的に早朝に目が覚めた。温泉で目を覚まして、出発準備。

朝一番は、大船渡の加茂神社。ここも、大船渡に来ると必ず毎回寄る場所。大船渡の港周辺の様子が一望できる場所なので、物理的復旧の進展度合いがよくわかる。

大船渡は、よくも悪しくも見切り発車的な面があり、来るたびに仮設の店舗が増えていく。その一軒一軒の前に立つと、事業主の必死の取り組みが感じられて涙がわいてくる。僕の実家も苦労したから、個人事業主や小規模事業主の気持ちはよくわかる。

一方、この丘の上から全体を見渡せば、町としてのグランドデザインがないということも、何となく伝わってくる。よそ者が見ても、それは分かる。僕がこの土地のリーダーだったら、どうするかな。石段の上で、ふと考え込んでしまう。

それにしても桜がきれいだ・・・。この土日は、おそらく岩手沿岸部の桜の最盛期に違いない。東京の桜が最盛期だった4月初旬の週末は、「Komo’s英語音読会」で陸前高田に来ていたから、見逃した。ここでようやく帳尻があった。

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いつものように、参拝して祈った。

陸前高田へ。昼にOさんにお会いすることになっているが、午前中は結局ほかにアポイントメントが入らなかったので、再び高田中心部へ。

僕は何かの勘違いで、被災した高田高校が取り壊されたと思っていた。しかし、よく見たらまだあった。奇妙な安心感?がわいてきた。

9月に初めて陸前高田に来たとき、物資の仕分け作業で出会ったMさんがこの高校の卒業生。見る影もなく無残に被災した高校への思いを、その時聞いた。津波でぶち抜かれた建物の青い屋根が、その時から目に焼きついていた。

今日は米崎のほうから車をまわしてきたら、冠水した道路を渡ったところで高田高校の青い屋根が見えた。そっか、こっちだったっけか・・・。引き寄せられるようにハンドルを切った。

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(地元の皆さま、ごめんなさい。また嫌な写真を載せてしまいます)

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外をしばらく歩いて、色々な場所で立ち止まったりしていた。ほかにも、ときどき外地のナンバープレートをつけた車がとまって人が降りてきた。

1時間くらいたっただろうか。立ち去ろうとしたその時、何かに襟元を引っ張られるような感じがして、振り向いてふと校舎の中に入ってしまった・・・。引き込まれたというほうが正しい。そして、それからしばらく、何かに取り付かれたかのように歩きまわっていた。

一人きりで被災した建物に近づくと、騒音やざわめきのようなものがわきあがってくる。人を案内しているときは、そんな感じはない。独りで来ると、そうなる。

悲鳴が聞こえるという人もいるが、僕には人の声は聞こえない。騒音とざわめき。そして、自分がその被災の瞬間にそこにいるイメージ。MAIYA跡、市役所跡、市民体育館跡、消防署跡・・・そして、ここでもやっぱりそうなる。

厳密に言うと、「恐怖」というのじゃなくて、うまく言葉にできない重苦しい感情。なにものかに、「お前はちゃんと見ておけ!」と言われているような気がする。自分に何が起きているのだろう。何なのだろう・・・。

(たぶん、入ってはいけない場所だと思います。施設関係者の方々、本当に申し訳ありません。その分、今後の人生の中で、高田の将来のために貢献します)

その後、被災した高田病院のほうへ。今の仮設の高田病院に勤務するドクターの方々数名と縁が出来てから、なんとなく、こっちも気になるようになってきた。

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ここは、明示的に立ち入り禁止のテープが張られている。中には入らず、外をぐるっとまわって様子を見た。ここで亡くなった方々もおられる。玄関で、しばらく合掌。

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お昼前に、Oさんに電話。仮設住宅でピックアップして、竹駒の「とうごう薬局」周辺の花壇に行った。津波で流される前は、この土地にはOさんのご自宅があった。そして、多くのご遺体が流れ着いたと場所でもある。震災以来、Oさんはこの敷地にたくさん花を植えている。

昨年の夏場には、何百本というヒマワリが咲いた。ヒマワリの季節が過ぎたら、全国からスイセンやチューリップの球根が寄せられた。その数、おそらく1000を超えるだろう。冬を越えて、その球根たちが花を咲かせている。

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僕が送った球根も、いくつかの花壇で花を咲かせていた。ボランティア仲間が植えたものも、見事に咲いていた。今日の陽光はことさらに白く輝き、なにか別世界のよう
だった。

津波到達地点に桜を植樹して後世に伝えようという、「3.11 さくらライン」の活動で植樹された桜の木。「とうごう薬局」後背地の斜面に、3.11一周年の日に何本か植えられた。それが、若葉を伸ばし始めている。花を少しだけつけたものもあった。

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Oさんが、「あ~れ、咲いてるわぁ。写真とってけろぉよ」と言うので、革靴だったが急斜面を登って色々と撮影。この写真(↑)は、そのうちの一本。立派に芽をふいている。

細根沢の仮設住宅の上のほうにある、某社の敷地。その庭の桜が満開。

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ソメイヨシノじゃない。もうちょっとふんわりした感じで、花と若葉が一緒に出てくる山桜タイプだ。圧倒されるほどに美しかった。

「桜もアンタもきれいねだとか、言わねえのかぁ」と、くだらんことを言うOさん(笑)。「いわね」と短く答える僕。Oさん、初めてお会いした頃に比べると、ほんと元気になったなぁ。ちなみにOさん、実家の母とほぼ同じ年齢。

Oさんの仮設住宅に戻り、漬物などでご飯を食べながら、色々と話しこんだ。息子さんの遺影が見下ろすちゃぶ台で、久々にしっかり深く話した。やっぱり、今回来て良かったなぁ。お互いのために、良かった。

昼下がり、仮設の高田病院へ。「Komo’s英語音読会」に参加しておられる医師のTさんとお会いして、医学論文の英訳を最終化する作業。

作業を終えて色々とお話ししていたら、外地から陸前高田にたどりついたそれぞれの人生のことなどに話が至った。価値観とか行動のスイッチの入り方が、けっこうお互いに似ているなぁ・・・と感じた。

9月にこの地に赴任して来られたTさん。年齢も、ちょっとだけTさんのほうが僕より若いけれども、ほぼ同世代だ。これもまた、出会いだなぁ。

成り行きで、被災したほうの高田病院を案内してくださることになった。得がたい機会。午前中に一人で行った際には分からなかったことも、詳しく説明していただけた。

しばらく、時間が止まったかのような感覚になった。ここも6月から解体が始まるようだ。被災各地で壊れた建物の解体が進んでいく。復興のことを考えたら当然のこと。地元の方々の心情を考えたら、当然のこと。

しかし、やはり個人的には僕は、何か残すべきだと思っている。海岸線にある「道の駅」などは残ると聞いたが、あそこは海の前だから津波が来るのは驚きではない。本当にこわいのは、もう少し中に入った場所でも20~30メートル級が来るということだ。

みんな、今ここの土地にいる人々のことを思いやって動く。でも、3世代くらい先のことを考えてみよう。たとえば、今あなたは被災地から遠い、ほかの県に住んでいる。でも、何十年も先のある日、あなたの子孫がここに住むためにやってくるかも知れない。

今後10年くらいで、ほとんどの爪跡はなくなるだろう。だって、ひどすぎることは忘れたいのが人情だもの。忘れることができるから、人はやり直せる。それも天の与えた才能だ。

20年もすれば、ここにはまた色々な建物が建っていることだろう。5メートルの盛り土をしたって、20~30メートルの津波には意味がない。堤防を作ったって、その高さの津波を防ぐ手段はないだろう。

それでもきっと、時間とともに人はまたここに店を開き、やがてまた住み着くようになるんじゃないか。50年後には、そうなっているような気がする。その中に、今地元にいる人々の子孫だけでなく、あなたのひ孫もいるとしたら、今何をすべきなの?

今回は、過去の津波とは違って、豊富に映像が残されている。写真もたくさんある。でも、それらを見て感じるのは恐怖や驚きであって、一人称の仮想体験ではない。実際に被災した建物に来ないと分からないものがある。

それくらい強い疑似体験をしないと、やっぱり、後世の人は津波の本当の意味を理解できないんじゃないかと思う。僕だって、ここに来なかったら今頃はもう「遠いところの出来事」として忘却し始めていたに違いない。

僕に何十億というお金があったら、市街の被災建築物を一つ買い取って残し、後世に伝える公園にするな・・・。海外からも人に来てもらう。建物を大きなドームの中に入れて、そのドームの上部にを避難所設備を作る。

巨大津波は防ごうとしてもむなしく、かつ、最近の歴史を見れば100年以内のサイクルでけっこう大きなものが沿岸部に来ている。起きてしまったときに、いかに迅速に安全な場所に逃げるか。その仕組みを、都市復興の中に組み込む必要があると思う。

てなことを言うと、「わけのわかっていないよそ者が何を言うか~」ということに、なるだろうな。でも、僕はもはや完全なよそ者ではない。それに、数世代先の自分の子孫のことまで考えたら、まったく関係がないわけでもない。

夕方、佐藤たね屋さんへ。

おそらく現時点では稀有と言ってよいであろう、被災者本人による英文の震災手記、「The Seed of Hope in the Heart」。近くその増刷をするので、もろもろ相談。既に3ページほど新たな部分を書き足しておられるとのこと。随時ドラフトをお送りいただき、添削を進めることに。

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スペイン・バルセロナの有志が、この手記をスペイン語に翻訳する作業に取り組み中。それが完成すると、英語圏だけでなくスペイン語圏にもこの手記の潜在読者が広がることになる。いずれ南米にも広がる予定。

希望的観測ではなく、大真面目に、世界中の人々にこの手記を読んでいただくつもり。

ついでに、夏野菜の苗も購入させていただいた。東京では、ちょうどゴールデンウィーク頃が夏野菜の植えつけ適期。ナスを2種、トマトを3種、その他にカボチャ、サトイモ、ミズナ、スティックセニョールの苗を買った。

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ことさら冷え込んだ今冬を乗り越え、佐藤さんが丁寧に育てて春につないだ苗。僕の中では、ここが日本一のたね屋さんだ。

夜は、再びOさんの仮設住宅へ。医師のTさんと一緒にスーパーで食材を買って、3人で鍋にした。また色々と深い話ができた。三者三様の経緯があって、今ここに同じ鍋を囲む。

Oさんも僕も、「震災なんて起きて欲しくないけど、起きてしまった以上、こうして人と人との縁が生まれるというのは、いいことだねぇ」と、何度か同じことを言ったような気がする。

ことが起きてしまった以上、すべてはそこからだ。出会ってしまった以上、その一つひとつの縁を大事にしよう。

Tさんが帰路についた後、結局僕は旅館には泊まらず、Oさんの仮設住宅でごろんと横になって3時間ばかり寝ることにした。

「朝は、もう勝手に出てって。はい、じゃ、おやすみなさい。」とOさん。

3時に起きて、こっそり支度して出ようとしたら、Oさんが起きてきた。
「あ~、ごめん、起こしちゃったかぁ」。

「行ってらっしゃい。」と、Oさんがボソッと言った。

ドアをそろそろと開けて外に出たとき、またOさんが言った。
「行ってらっしゃい。」

「・・・ あ、行ってきます!」

ということは、今度来るときは、「ただいま」と言って入るってことだな。

路面凍結の季節は過ぎたので、矢作から一関へ抜ける峠道を通って帰路についた。

思い切り早く出たせいか、道路は万事順調。午前中に自宅に到着して、昼ごろにはさっそく買ってきた苗を畑に植え付けた。

今日の東京は曇天。ふと、昨日彼の地で見た抜けるような青空、咲き誇る花々、そして縁のある人々のことを思った。今回は、往復で1500キロくらい走ったかな。

通い続けますよ。

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